【特集】子ども3人を津波で亡くした父「一番の宝物がなくなってしまった」それでも生きてこられたのは…
木工作家の遠藤伸一さん。
東松島市の工房でこども用の椅子などを制作している。
遠藤伸一さん
「オイル刷り込んで仕上げて、オイルだと湿気を欲しい時に吸ったりいらない時にはいたり気が出来る。木も長持ちする。」
遠藤さんが手掛ける作品は木の温もりを感じさせるものばかり。
遠藤伸一さん
「自分の中であの場面で止まってしまっているところがある。確実に年は取っているけど…」
震災前、遠藤さんの自宅があった場所だ。
いまは遠藤さんが自ら作った大きな木製の遊具が置かれている。
東日本大震災で遠藤さんは3人の子どもを失った。
長女の花さん(当時13歳)、真ん中の弟・侃太さん(当時10歳)、末っ子の奏さん(当時8歳)。
遠藤伸一さん
「日本製紙さんが煙出しているじゃない。運動会の前とかに。”侃太、運動会雨になると大変だから、雲作るのやめてもらった方がいいよな?”って言ったら”(侃太は)ここで雲作ってるの?って言っていた。すると長女の花がお父さん意地悪だねって」
この日、遠藤さんの自宅跡を訪れたのは長野県からの中学生たち。
遠藤伸一さん
「この辺がおじさん家」
遠藤さんは震災での体験を伝える活動をしている。
あの日、大きな揺れの後遠藤さんは、子どもたちを自宅に残し、トラックで親戚の安否の確認に向かった。
その途中で津波が…
遠藤伸一さん
「がれきと一緒に建物の壁に叩きつけられて、がれきに挟まっていたが生きていた。右足は折れてしまっていた。」
震災翌日の朝、たどりついた自宅はがれきに覆われていた。
遠藤伸一さん
「自分の中での一番の宝物がなくなってしまった。それを守れなかった。生きる意味もないような状態」
自ら命を絶つことも考えた遠藤さんを見守ってくれたのは、避難所でともに過ごした人たちだった。
遠藤伸一さん
「おじさんにはたくさんの人たちが寄り添ってくれて注いでくれて、 いま壊れない状態でみんなの前で話しできるようになれた」
震災後、地区には津波避難タワーが整備された。
地区を襲った津波は高さ3メートルほどだった。
遠藤伸一さん
「おじさんが最初に見た津波は水ではない。家と車、砂ぼこり立てているのがこっちに向かってくる」
震災を知らない世代に伝えたいのは津波の脅威。
そして、人々の支え合いだ。
今年の夏、自宅があった場所のすぐ近くに野外音楽堂が完成した。
作ったのは大阪で建築資材の会社を経営する林田元宏さん。
林田元宏さん
「関西で阪神大震災を経験しています。お手伝いできることはないか。遠藤さんに連絡をとった」
木材の製造の過程で出る端材を、震災復興に活用してほしいと遠藤さんに声をかけたことから2人の交流が始まった。
この音楽堂は人の思いが集まった奇跡。
遠藤さんはそんな風に感じている。
遠藤伸一さん
「(林田さんは)震災の思いをつないでいく、ここが寂しい場所にならないようにという温かい思い。きょう、たくさんの人が来ていて、ご近所だった人もたくさん来ていた。離れた人もこういう場面をいただけて、来るきっかけになった」
流れてくる音楽は天国にいる子どもたちにも届いたかもしれない。
先月9日、仕事を終えた遠藤さんはある場所に向かっていた。
この日は長女・花さんの誕生日だ。
「シャインマスカットのタルトをください」
娘のためにしてあげられること。
震災後、誕生日は子どもたちが成長したであろう姿を想像する日になった。
花さんが生きていれば27歳。
花嫁姿が見られたかもしれない…
遠藤伸一さん
「インパクト使うときこうやるときれいに入るから」
遠藤さんは石巻市の小学校で小学6年生に卒業制作のベンチづくりを指導していた。
この活動を初めて8年目になった。
遠藤伸一さん
「東日本大震災の後、この地にたくさんの人の思いが注がれてこのような場面がいただけた。児童の保護者が歯を食いしばってきて生きてきた部分と、たくさんの応援をしてくださる人がいまも継続している。 その人の思いを感じてくれたらうれしいです」
遠藤さんが「震災を乗り越えた」と言うことはなかった。
それでも、震災からの13年8か月を歩んで来られたのは、周りの人々の支えがあったからだ。