ノーベル平和賞受賞がもたらすもの「今が転換点」被爆者たちが核廃絶に向けて次のステップへ《長崎》
ノーベル平和賞を受賞した日本被団協のメンバーらがノルウェーの若者との交流会などに臨みました。
オスロでは受賞を記念した展示会も始まっています。
オスロ市の庁舎前にあるノーベル平和センター。
授賞式を終え日本被団協のメンバーはオープニングセレモニーに臨みました。
(フリードネス委員長)
「彼らは何年も何年もかけて、核兵器が使用された場合どんな結果が待っているか、人類がどうあるべきかを伝えてきた」
ノーベル平和賞受賞を記念した展示会では、日本被団協の活動紹介をはじめ、被爆直後の写真や描かれた絵などが展示されています。
原爆原爆投下直後の浦上天主堂。
闘ってきた被爆者の “顔” をとらえた写真も。
来年11月まで開催の間、世界から訪れた人たちに被爆の実相を伝えます。
(日本被団協 田中 熙巳代表委員)
「(被爆の実相を)実際に目で見て、心で受け止めることがない限り、廃絶への努力はできない」
地元の高校には、長崎の被爆者 横山 照子さんの姿が…。
(日本被団協 横山 照子代表理事)
「きのうノーベル賞をいただきました」
オスロの高校生らから日本被団協の仲間とともに、大きな拍手で迎えられました。
核なき世界の実現を願う “被爆者の声” が、オスロから世界へと発信されたノーベル平和賞授賞式。
(日本被団協 田中 熙巳代表委員)
「世界中の皆さん、核兵器禁止条約のさらなる普遍化と核兵器廃絶の国際条約の締結を目指し、原爆体験の証言の場を各国で開いてください。
人類が核兵器で自滅することのないよう、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて、共に頑張りましょう」
その願いを託されたのが未来を生きる “若い世代” です。
(日本被団協 横山 照子代表理事)
「原爆の被害というのは、あの時だけではなくて、こんなふうにして人間の一生をダメにするんだと皆さんに知っていただきたい」
4歳で被爆した自身の経験を、ノルウェーの高校生ら約200人を前に語ります。
被爆後の入退院で学校へ行くのもままならず、44歳の若さで亡くなった妹・律子さんの写真を手に、思いを伝えました。
(日本被団協 横山 照子代表理事)
「特に高校生の皆さんには、妹が『勉強が足りない足りない』と、(原爆の後遺症や差別などで)学校に行きたくても行けなかったということを分かっていただきたい。
(そして) 自分たちの歩む道をぜひ自分で決めてほしい」
(日本被団協 横山 照子代表理事)
「戦争がない平和な世の中でしか、自分の道は切り開くことはできない。
この地球上には(核兵器は)1発もいりません。ぜひみなさんも、核兵器廃絶には心を寄せていただきたい」
ノーベル平和賞の授賞式後に「これからが本当に私たちの正念場。自分たちだけではできないので、日本国民、世界の人々一緒に運動をしていって、核兵器を一刻も早くなくすことをしていかないといけない」と語り、未来を担う若者への継承も進めていく必要があると話していた横山さん。
(日本被団協 横山 照子代表理事)
「受賞後の初めての活動が若者との交流ということで本当にうれしかった。若者につないでいかないと、この運動はなっていかない。交流ができて未来があると実感した」
授賞式の翌日は、オスロ市内の大学でノーベル委員会が主催するフォーラムも開かれました。
テーマは「核兵器の脅威にどう向き合うか」。
長崎の被爆者で県被爆者手帳友の会会長の朝長 万左男さんが医師として、被爆者医療に尽くしてきた経験から、被爆者を生涯苦しめる核兵器の非人道性を訴えました。
(被爆者手帳友の会 朝長 万左男会長)
「若者世代がしっかり理解して、“核兵器は捨てるべきだ” ということを、国を超えて世界の連帯を実現する(以外)に、将来の核のない世界のスタートはありえない。
“ノーベル平和賞” の受賞は、そのきっかけをつくるのではないか」
迎える『被爆80年』。
(日本被団協 横山 照子代表理事)
「本当に転換点だと思います。世界中の平和を愛する人たちのおかげで、賞をいただけたわけですから。その人たちの報いも含めて。
そして私たちの、亡くなっていった被爆者の “やり残したこと” がまだまだあるわけだから、残された課題をやらなきゃいけないんじゃないかと」
日本被団協のメンバーはすでに帰国の途につき、13日に長崎市で会見に臨みます。