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佐世保空襲で「地図から消えた町」どう伝え残す?体験者の記憶 今が正念場の継承活動《長崎》

2025年3月29日 2:00
佐世保空襲で「地図から消えた町」どう伝え残す?体験者の記憶 今が正念場の継承活動《長崎》

1945年、佐世保空襲で地図から消えた “ある町”。

語り継ぐ会の女性が、証言を掘り起こしています。

空襲体験者が年々少なくなる中、後世につなぐ取り組みです。


【NIB news every. 2024年7月12日放送より】

◆佐世保の中心部がほぼ全滅した「空襲」

佐世保市中心部にある佐世保空襲資料館。

(牛島 万紀子さん)
「挟み撃ち状態にして、この中心部がほぼ全滅したということなんですね」

展示物は、模型に絵画。本物の焼い弾の残骸も…。

79年前の惨禍を伝えています。

(牛島 万紀子さん)
「1番の売りは何かというと、触っていいということ。物を通して戦争というのを体で感じることができる」

『NPO法人 佐世保空襲を語り継ぐ会』の牛島 万紀子さん 72歳。

資料館の案内を通して伝えるのは、戦争に翻弄された軍港都市の実相です。


1945年6月28日深夜から、29日未明まで続いた「佐世保空襲」。

市街地の3分の1が焼かれ、約1200人以上が犠牲となりました。

空襲体験者が年々少なくなる中、今年3月には佐世保空襲遺族会が解散。

体験者から直接当時の話を聞ける機会は、減りつつあります。


◆地図から消えた「太田町」を知っていますか


(牛島 万紀子さん)
「ここですね、ここが太田町」

牛島さんが集めているのが、焼け野原となり、戦後その存在も抹消された 佐世保市 “太田町” の証言。

(牛島 万紀子さん)
「戦後生まれの人たちにとっては、太田町は知らない人がほとんどだと思う。


私の場合は、自分の母の実家があって、その太田町で家が焼失しているので、私は数少ない知っている方だと思う」


加藤 維子さん、92歳。

当時の太田町を知る一人です。

向かったのは、日蓮宗「延寿寺」。

加藤さんの祖父が開山し、戦前は太田町の高台にあったそうです。

(加藤 維子さん)
「大きかったですよ。自分で言うのは変だけど、相当な大きさだった」

しかし…

空襲によって寺を含んだ一帯は焼け、加藤さん一家は命からがら避難したそうです。

1950年代後半、現在地に再建され、今に至ります。

思いをはせるのは、失われたまちの面影です。

(加藤 維子さん)
「焼ける前は小径があって、両側に普通の小さい長屋のような家がずらーっと立っていた。そこの中にお習字の先生もいて、和菓子屋さんもあったし」

当時14歳だった加藤さんが経験した “空襲”。

(加藤 維子さん)
「空襲警報が鳴らないうちに、焼い弾がバンバンバンと落ちて。それ空襲だというので、防空壕に行きなさいと言われて入ったら、父から防空壕に入ったらダメ、煙が入ってくるから外に出ろと言われて外に出て…」

裏山に避難し、九死に一生を得ました。

(加藤 維子さん)
「父と出会ったものだからよかったねぇといって。足をこうして父になだれかかっていたら、ここに焼い弾が落ちた」

牛島さんは、太田町で起きた空襲の様子を丁寧に聞き取ります。

(加藤 維子さん)
「もう全部焼けているのだから。全部焼けてしまった」

◆まず「知ること」から “受け継ぐ” が始まる

市の中心部にあり、住宅が建ち並んでいた太田町は、空襲の後は米軍に接収され、1965年で町名は廃止とされました。

現在は、木々が生い茂る公園が広がっています。

全焼した延寿寺の参道の痕跡…。

(加藤 維子さん)
「桜の木がね、ここいらへんあっちにあった。
今もう、なくなってしまっている」

(牛島 万紀子さん)
「この辺も全部、家が建っていたんですか」

(加藤 維子さん)
「そう、お友達の家がここら辺に何軒もあった」

古い石畳は、79年の月日が過ぎたことを感じさせます。

戦争体験者がいなくなる時代が近づいている今、

後世に向けて何をすべきか…。

(加藤 維子さん)
「味わわない方がいいのは1番いいが、(戦争を)味わった私どもとしては味わわせたくない光景。あるものがなくなっちゃうんだからね。全て」

(牛島 万紀子さん)
「知らなかったら何も言えない。だから、まずはやっぱりきちんとどういうことがあったのかという事実を、まずみんなに知ってほしい。そこから始まる。
“受け継ぐ” ということが…」

記憶を継承する活動は今、正念場を迎えています。

最終更新日:2025年3月29日 3:33
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