佐世保空襲で「地図から消えた町」どう伝え残す?体験者の記憶 今が正念場の継承活動《長崎》
1945年、佐世保空襲で地図から消えた “ある町”。
語り継ぐ会の女性が、証言を掘り起こしています。
空襲体験者が年々少なくなる中、後世につなぐ取り組みです。
【NIB news every. 2024年7月12日放送より】
佐世保市中心部にある佐世保空襲資料館。
(牛島 万紀子さん)
「挟み撃ち状態にして、この中心部がほぼ全滅したということなんですね」
展示物は、模型に絵画。本物の焼い弾の残骸も…。
79年前の惨禍を伝えています。
(牛島 万紀子さん)
「1番の売りは何かというと、触っていいということ。物を通して戦争というのを体で感じることができる」
『NPO法人 佐世保空襲を語り継ぐ会』の牛島 万紀子さん 72歳。
資料館の案内を通して伝えるのは、戦争に翻弄された軍港都市の実相です。
1945年6月28日深夜から、29日未明まで続いた「佐世保空襲」。
市街地の3分の1が焼かれ、約1200人以上が犠牲となりました。
空襲体験者が年々少なくなる中、今年3月には佐世保空襲遺族会が解散。
体験者から直接当時の話を聞ける機会は、減りつつあります。
(牛島 万紀子さん)
「ここですね、ここが太田町」
牛島さんが集めているのが、焼け野原となり、戦後その存在も抹消された 佐世保市 “太田町” の証言。
(牛島 万紀子さん)
「戦後生まれの人たちにとっては、太田町は知らない人がほとんどだと思う。
私の場合は、自分の母の実家があって、その太田町で家が焼失しているので、私は数少ない知っている方だと思う」
加藤 維子さん、92歳。
当時の太田町を知る一人です。
向かったのは、日蓮宗「延寿寺」。
加藤さんの祖父が開山し、戦前は太田町の高台にあったそうです。
(加藤 維子さん)
「大きかったですよ。自分で言うのは変だけど、相当な大きさだった」
しかし…
空襲によって寺を含んだ一帯は焼け、加藤さん一家は命からがら避難したそうです。
1950年代後半、現在地に再建され、今に至ります。
思いをはせるのは、失われたまちの面影です。
(加藤 維子さん)
「焼ける前は小径があって、両側に普通の小さい長屋のような家がずらーっと立っていた。そこの中にお習字の先生もいて、和菓子屋さんもあったし」
当時14歳だった加藤さんが経験した “空襲”。
(加藤 維子さん)
「空襲警報が鳴らないうちに、焼い弾がバンバンバンと落ちて。それ空襲だというので、防空壕に行きなさいと言われて入ったら、父から防空壕に入ったらダメ、煙が入ってくるから外に出ろと言われて外に出て…」
裏山に避難し、九死に一生を得ました。
(加藤 維子さん)
「父と出会ったものだからよかったねぇといって。足をこうして父になだれかかっていたら、ここに焼い弾が落ちた」
牛島さんは、太田町で起きた空襲の様子を丁寧に聞き取ります。
(加藤 維子さん)
「もう全部焼けているのだから。全部焼けてしまった」
市の中心部にあり、住宅が建ち並んでいた太田町は、空襲の後は米軍に接収され、1965年で町名は廃止とされました。
現在は、木々が生い茂る公園が広がっています。
全焼した延寿寺の参道の痕跡…。
(加藤 維子さん)
「桜の木がね、ここいらへんあっちにあった。
今もう、なくなってしまっている」
(牛島 万紀子さん)
「この辺も全部、家が建っていたんですか」
(加藤 維子さん)
「そう、お友達の家がここら辺に何軒もあった」
古い石畳は、79年の月日が過ぎたことを感じさせます。
戦争体験者がいなくなる時代が近づいている今、
後世に向けて何をすべきか…。
(加藤 維子さん)
「味わわない方がいいのは1番いいが、(戦争を)味わった私どもとしては味わわせたくない光景。あるものがなくなっちゃうんだからね。全て」
(牛島 万紀子さん)
「知らなかったら何も言えない。だから、まずはやっぱりきちんとどういうことがあったのかという事実を、まずみんなに知ってほしい。そこから始まる。
“受け継ぐ” ということが…」
記憶を継承する活動は今、正念場を迎えています。