「被爆の遺伝原因かも…」7歳息子を白血病で亡くした94歳被爆者 核の恐怖 次世代へ語り継ぐ《長崎》
諫早市で被爆者の救護にあたり、被爆した男性にお話を伺いました。
亡き息子から背中を押され、伝えたい思いがあります。
見慣れた駅が “地獄” と化した、あの日の記憶。
(被爆者 氏原 和雄さん)
「もう本当に可哀想で。こんなになっても人間は生きているんだなと思った。列車の中では “生き地獄” 。そういう感じを受けた」
94歳の被爆者が今、伝えたい思いは…。
諫早市高来町で暮らす氏原 和雄さん 94歳。
79年前、15歳の動員学徒として諫早駅で働いていました。
(氏原 和雄さん)
「昔の面影が、その付近は全く同じ。向こうの方はだいぶ駅舎が大きくなって広くなった。新幹線ができたということもあって全然違うけど、ここらは昔とあまり変わらない」
当時の列車に客車は少なく、戦争に必要な弾薬や、その材料を運ぶ貨物列車がほとんど。
あの日も車両の連結作業を行っていた時でした。
1945年(昭和20年) 8月9日午前11時2分。
(氏原 和雄さん)
「ピカっと目がくらむような光だった。なんだろうかと思ってしばらくして、ドカンという音が西の方から聞こえた」
それから間もなく長崎市内の状況が伝えられ、諫早駅に運ばれてくる被爆者の救護命令が出されました。
列車が入ってきたのは、約4時間後。
座るための場所もない貨物列車の中で、毛布や衣類を敷いた上に負傷者が寝かされた状態を見て、言葉を失ったといいます。
(氏原 和雄さん)
「中に入ったら “生臭い” においがかなりして、『痛い、痛い、水を、水を』と、うめき声が聞こえた。本当に “生き地獄” とは、こういうことだと思った」
氏原さんは被爆者の衣類などに残留した放射能の影響を受け、『救護被爆』しました。
被爆者の約1割が、この救護被爆者だとされています。
◆愛する息子が病に その原因は被爆かもと告げられ…
風評被害をおそれ、被爆者健康手帳の交付も受けなかったという氏原さん。
しかし、被爆から28年が経とうとしていた1973年5月。
三男の浩順さんが突然、体調を崩し「白血病」と診断されます。
『お父さんの被爆の遺伝が原因かもしれない』と主治医に告げられ、浩順さんはそれからわずか4か月後、7歳で息を引き取りました。
(氏原 和雄さん)
「本当に原爆 放射能というのは、こんなに恐ろしいものかと。戦争のおそろしさ、核の怖さ、命の大切さを初めて自分なりに受けた」
息子を失ったうえ、その理由が自身の被爆のせいかもしれない…
浩順さんの死をきっかけに、自身の被爆と向き合う日々。
自分が見て、感じて、経験したことを、多くの人へ語る決意をしました。
(氏原 和雄さん)
「次の世代に伝えること、話をしなければならない。何か自分自身が被爆したという証明を持っておかなければならないと思い、すぐ被爆者健康手帳をもらった」
語り部の活動を始めた氏原さん。
94歳になった今も、諫早市や被爆者団体の依頼を受け、講話や証言を続けています。
去年の夏には、高齢の体を押して活動する氏原さんを見守ってきた長女の光恵さんが諫早市の「被爆二世の会」に入会。
氏原さんの体験は「被爆二世の会」が紙芝居にしたいと制作を進めていて、光恵さんがその脚本を担当しています。
この日、2人は市内の百日紅公園へ。
市営の火葬場だったここには、原爆で犠牲になった約400人~500人が運ばれたそうです。
迎える被爆80年。
体調が許す限り、記憶を伝えていく覚悟です。
(長女 光恵さん)
「(三男の浩順さんは)見ていると思う。父の背中を押すと同時に、父も私も弟に生かされている。だから今できることを一緒にできたら喜んでくれるんじゃないかな」
(氏原 和雄さん)
「特に浩順の慰霊に対しては私は生涯忘れもしないし、本当に可哀想だった…。つくづく思う。
(今は)浩順が私の背中を押して『頑張れよ』と言っているような。だから私も、それに沿ってやっていかなければいけない」
(長女 光恵さん)
「大丈夫よ。今も、頑張ってって言ってるよ」
誰も傷つかない 平和な未来を次の世代に…
父と娘、二人三脚の活動は続きます。
【NIB news every. 2024年12月4日放送より】