【被ばくから70年】「第五福竜丸事件」その記憶を後世へつなぐ取り組み(静岡・焼津市~東京)
1954年3月1日、焼津港に所属する第五福竜丸が、太平洋沖でアメリカの水爆実験により被ばくしました。被ばくから70年、当時を知る人が減っていく中、その歴史をどう語り継ぐかが課題となっています。
3月1日、全国各地の平和団体などが焼津市に集まり、核兵器廃絶を訴えました。JR焼津駅前を出発した一行が向かったのは、第五福竜丸の無線長久保山愛吉さんが眠る弘徳院。集まった人たちは、墓前に花を手向け平和への誓いを新たにしました。
70年前の3月1日。日本から4600キロ離れたマーシャル諸島・ビキニ環礁でアメリカが行った水爆実験に、焼津市の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が巻き込まれ、23人の乗組員全員が被ばくしました。
その一人、無線長だった久保山愛吉さんは「原水爆による被害者は、わたしを最後にしてほしい」そう言い残し、約半年後に亡くなりました。
あの日から70年。各地でその記憶を後世へとつなぐ取り組みが行われています。
焼津市にある歴史民俗資料館では、被ばくから70年の節目にあわせ、第五福竜丸の歴史をたどる特別展が開催されています。第五福竜丸から採取された「死の灰」の実物などが展示されているほか、被ばく後に亡くなった無線長の久保山愛吉さんが、病院から家族に送った手紙も展示されています。この展示は6月30日まで行われるということです。
第五福竜丸は、その後、東京水産大学の練習船として使われたあと、ゴミ処分場の埋立地「夢の島」に放置されていました。放置されていることを知った地元の人たちが保存活動に取り組み、48年前に東京都江東区の「夢の島」に展示館が誕生しました。いまも、第五福竜丸はこの展示館に保存されています。
(都立第五福竜丸展示館 安田 和也さん)
「直接体験した方の話を聞くことが難しい時代に入っている。そういう中でどうやって核被害、被ばくのことを伝えていくか、本物の船が、被ばくの被害に直面した船が、保存されている意義は非常に大きい」
館内には、ビキニ事件や核兵器に関する資料が並び、核実験の歴史をたどることができます。
被ばくから70年、当時を知る人が減っていく中、展示の内容も少しずつ変化しています。
(都立第五福竜丸展示館 安田 和也さん)
「こちらに展示してあるのが大石又七さんが作った第五福竜丸の模型。第五福竜丸のことを伝えたいという思いがこもっている作品」
この船の模型を作った乗組員の大石又七さん。展示館や国内外で700回以上自身の体験を証言し、核廃絶を訴えてきましたが、2021年3月に87歳で亡くなりました。
以前、私たちの取材にも当時の鮮明な記憶を語っていました。
(大石 又七さん)
「光がぱあっと見えて後から大きい音が鳴った、白い灰が辺りに降り始めて、デッキに積もるようになった」「めまいや吐き気がした。変化は夕方になってから感じ始めた、いつ発病するのか、恐怖が体にあった」
いまは直接聞くことができない大石さんの記憶。大石さんが亡くなった後、展示館では生前に収録した証言VTRのコーナーを新たに設置しました。
(都立第五福竜丸展示館 安田 和也さん)
「私たちも未来に向けて新しい表現の仕方で展示を作るなど、第五福竜丸や核兵器のことを学んだことのない若い人 たちに、どう伝えていったらいいかという、新しい工夫をすることが我々の仕事だと 思う」
世代を超え、多くの人に核の恐ろしさを伝えて来た第五福竜丸。被ばくから70年経ったいま、新しい形でその歴史が次世代へと語り継がれています。