【義足の中学生】「骨肉腫」で右足を失った少年に笑顔を!最先端技術が詰め込まれたスポーツ競技用義足「ブレード」とは?(every.しずおか特集)
下田市の中学2年生、高木翔梧くんは、小学3年生の時に右足を切断。日常生活では義足が必要ですが、翔梧くんが使うのは「ブレード」と呼ばれるスポーツ競技用。
(高木翔梧くん)
「“ブレード”に替えてから友達との付き合いが変わったから、気分が前向きになって明るくなった」
翔梧くんを笑顔に変えた「ブレード」のパワーとは?“走れる”ことで気持ちや表情まで明るく前向きに!スポーツ用義足で大きく変わった中学2年生に密着しました。
下田中学校に通う中学2年生の高木翔梧くん。
(クラスメート)
「翔梧くんは笑わせてくれる人です」「めっちゃ明るい!バカなやつ(笑)」
いつもひょうきんで、クラスの人気者!元気いっぱいの翔梧くんですが、右足はなく「ブレード」というスポーツ競技用の義足を付けて生活しています。
翔梧くんは小学3年生の時に骨のがん「骨肉腫」を発症。右足を切断しました。最初は一般的な義足をつけていましたが、今とは様子が違ったといいます。
(翔梧くんの母親 舞さん)
「表情が…ふてくされた顔じゃないけれど、『何で?』とも言わないけれど、これはできないんだよねみたいなときは、難しい顔をしていました。みんなと同じ行動をしたいんだろうなと感じていました」
一般的な義足は安定感があり歩きやすいですが、走ることは難しいとされています。一方、翔梧くんが使うのは、走ることを目的に開発された「ブレード」です。
初めて「ブレード」で走ったのは小学5年生の運動会。途中で何度も転んでしまいましたが、その度に立ち上がりゴールまで走り抜けました。
(高木翔梧くん)
「すごく跳ねるのと関節の動きが違うなと思った」「みんな走るから、その時についていける。汚れちゃう面はあるけど拭けばいいし、ブレードをずっと履いていた方が楽です」
翔梧くんのブレードを作ったのは沼津市出身の遠藤謙さん。現在、東京にある屋内型ランニングスタジアムの一角で、ブレードを開発する会社「サイボーグ」を経営しています。
遠藤社長は、慶応大学大学院で二足歩行ロボットの研究を行い、その後、アメリカの名門 マサチューセッツ工科大学に進み、義足エンジニアの世界へ飛び込んでいきました。
(Xiborg 遠藤 謙 社長)
「人間の身体に対する新しい領域、研究テーマだと思って、もうちょっと進むと健常者とか障害者という概念がひっくり返る部分だと思って、研究を続けています」
遠藤社長と翔梧くんとの出会いは3年前、「ブレード」を体験するイベントでした。
この時、翔梧くんが「ブレードを運動会で使ってみたい」と言ったのがきっかけで、それを聞いた遠藤社長が、急遽、翔梧くん仕様のブレードを手掛けたのです。
(Xiborg 遠藤 謙 社長)
「運動会は大きなイベントで義足の子たちが諦めてきたというか、一緒に楽しむということを『しょうがないよね』で諦めてきたことなので、ぜひ走ってもらいたいと考えていた」
そして、初めて「ブレード」で走った運動会。
その一年後…6年生の運動会では、転ぶことなく他の子にも負けない走りを見せました。そして…中学1年の時のリレーも、クラスメートと一緒に走りました。
遠藤社長は翔梧くんにモニターになってもらっているため「ブレード」を無償で提供しています。
(Xiborg 遠藤 謙 社長)
「ブレードは日常生活には向かない。階段も下りづらいし。かかとが無いから不安定なので。『なんで登下校とか日常生活で使っているの?』と聞いたら、『登下校中に友達が走り出したらそれについて行きたい』と言ったんです。それにブレードが使われているのがすごく嬉しくて」
小学校からのクラスメートは、「ブレード」を付けてから翔梧くんの表情が変わったことを覚えていました。
(小学校の同級生)
「(当時は)いつもよりちょっと暗かったです。ブレードをつけてから、足が速くなったり笑顔になって、体育でも走ったりして積極的に参加するようになった」
「歩きづらそうで、階段を上るのも大変そうだった。ブレードつけて明るい感じになってきたから、翔梧くんってこんなに明るい子だったんだなと思った」
“走れる”ことで、気持ちや表情まで大きく変わった翔梧くん。同じ状況の人たちにもぜひ「ブレード」を使ってみてほしいと言います。
(高木翔梧くん)
「生活していたら友達についていけなくて、悔しいとか悲しいがあったけれど、『ブレード』に替えてから友達との付き合いが変わったから、気分が前向きになって明るくなった」「(ブレードを)みんなに使ってほしいし、広まってほしい」
(静岡第一テレビ every.しずおか 2023年11月20日放送)