【特集】中越地震20年 全村避難を余儀なくされた長岡市の旧山古志村 当時の村長とその家族の歩み《新潟》
68人が犠牲となった中越地震から10月23日で20年となります。
被災地の20年をシリーズでお伝えします。
第1回は大きな被害を受け全村避難を余儀なくされた長岡市の旧山古志村について。
村の復興に尽力した当時の村長・長島忠美さんとその家族の歩みに迫ります。
◆緑豊かな原風景を写真に
美しい棚田に……凛と咲く彼岸花。
長岡市の旧山古志村……緑豊かな原風景を次々に写真におさめていきます。
長島忠育さん。 市内の高校に通い写真部に所属しています。
〈長島忠育さん〉
「山古志はザ自然という感じなので、ほかの場所では見られないような景色がやっぱり好きですね、山古志は」
長島さんの祖父は旧山古志村で村長を務めた長島忠美さん。
レンズの先に広がる風景は20年前、一瞬にして奪われました。
2004年10月23日旧山古志村は震度6強の激しい揺れに襲われ多くの建物が崩壊……尊い命が失われました。
◆「ふるさとを確保したい」
〈旧山古志村 長島忠美 村長 (当時)〉
「役場庁舎がまったく使えない状況になりまして、危険で入れません。役場に対策本部を置くことができませんので」
当時、陣頭指揮をとっていた長島忠美村長は地震の2日後に「全村避難」を決断します。
着の身着のままヘリコプターに乗り込んだ住民が目にしたのは田んぼや畑、そして山々……崩落した故郷の姿でした。
〈旧山古志村 長島忠美 村長 (当時)〉
「厳しい状況だが(村民は)よく頑張っていただいているし、ふるさとを確保したいという思いがありますので私も頑張ります」
山古志の住民、そして、ふるさとを守るため……。 村のリーダーは必死の思いで日々、奔走していました。
長島さんが亡くなって7年……忙しい中でも一緒に遊んでくれた大好きなおじいちゃんでした。
〈長島村長の孫・忠育さん〉
「一番大きいのは『優しい』というのが大きいですね。出かけるのにつれて行ってもらったりすることが多かったので。一緒にお祭りに行ったことがあるんですけどそれはすごく楽しかったという思い出があります」
〈長島村長の妻・久子さん〉
「お墓の中にはいませんって言われるけどさ。どっかにいるんだろうなっていうのは、いつでもまだその辺にいるという、そんな感じですよね」
長島村長の妻・久子さんです。
村長として全村避難を決断した夫の覚悟と苦しみを間近で感じていました。
〈長島村長の妻・久子さん(5年前)〉
「自分が全村避難を決断したと。(全村避難を)みんなが賛成するはずないですからね。やはりそのときに周りの人たちが責められると困ると、だから自分ひとりで判断するんだって判断したということは言っていましたけどね」
◆震災当時の記憶を祖母に
中越地震から3年後に生まれた孫の忠育さん……。
当時・小学6年の忠育さんは震災当時の記憶を祖母に尋ねていました。
〈長島村長の孫・忠育さん (当時)〉
「避難するときどんな気持ちだったか?」
〈長島村長の妻・久子さん〉
「そうねー。地震が起こったのは夕方というか夜に近かったから暗くてわからなかったけれど避難するときは明るかった。緑がみんな崩れて落ちて全部土の色。そういうのに変わっていた」
〈長島村長の孫・忠育さん (当時)〉
「すごい決断だと思う」
Q)どんなところがすごいと思う?
〈長島村長の孫・忠育さん (当時)〉
「全村避難を考えたりするところがすごいと思う」
10月、長岡市で開かれている中越地震の企画展です。
地震の被害……そして復興への歩みをいまに伝えています。
青木勝さん、74歳……当時山古志村の職員として長島村長とともに復興への対応に追われていました。
〈青木勝さん〉
「10月23日でしょもう一か月もすると雪が降るわけですよ。雪が降ったらもうこの状況ではとても山古志で避難生活は送れないと。誰に相談することもできないわけで。住民の生活の全部が自分の肩にかかってくるような、それくらいの重圧があったと思う」
◆「帰ろう、山古志へ」
地震発生から2日後の全村避難。
当時、長島村長はテントで寝泊まりしながら住民の生活再建に努めました。
〈旧山古志村 長島忠美 村長 (当時)〉
「村民がいつ帰れるのか、どんな 形で帰れるのか。まず私達は最優先して考えていく必要があります」
慣れない土地での避難生活……
長島村長は「頑張れ!」と記したノートを避難所に置き住民の声に耳を傾けてきました。
〈青木勝さん〉
「中には長島さんにしてみれば奮起させられるようなのもあるんですよ。『ばか村長』とか『どうしてくれるんだ』みたいなのを書く人も当然いる わけだし。でもそういうものにも彼はずっと真面目に返答を していたと」
「あの人は人の心に寄り添うというそれを信条にしていたところがありますから」
大切な住民や職員、そして、ふるさと……。
「帰ろう、山古志へ」。この合言葉を胸に、長島村長は復興へ向けて走り続けました。
◆「優しい人になりたい」
〈長島村長の孫・忠育さん〉
「朝になるとあそこらへんにもや がかかったりして結構きれい」
長島村長の孫、忠育さんは山古志の復興に尽力した当時のおじいちゃんの姿を見たことはありません。
でも祖父が愛し、守り抜いたふるさとの風景をこれからもカメラに収め伝えていきたいと考えています。
〈長島村長の孫・忠育さん〉
「一回こういうこと(地震)があってからいますごくきれいな状態になってきているので」
Q)どんな人になりたいと思う?
「優しい人になりたいなと思ってます」
「優しいところを強く持ったまま大人になりたいですね」
そして、忠育さんの祖母・久子さんは……
〈忠育さんの祖母・久子さん〉
「いろんなことあった。いろんな ことしてきた。仲間もいっぱい いろんなことしてきた。一緒に やってくれた」
「でもやっぱりね。私が頼りにするのは長島だったわけだから。本当にいてくれりゃあね」
帰ろう、山古志へ。
そして、これからも山古志で……。
被害から立ち上がるため手を取り合い、絆を深めた20年。
その歩みは次の世代が受け継いでいきます。