【特集】「家がマッチ箱をつぶしたようになっている」68人が犠牲になった中越地震から20年 証言でたどる 命を救おうとした人々 ≪新潟≫

68人が犠牲になった中越地震……20年前のあの日、余震が相次ぐ混乱の最中、1人でも多くの住民を救おうと奮闘する人たちの姿がありました。
自衛隊を先導しながら被災地を一晩中歩いた市の職員……ケガ人の手当てにあたった医療従事者。
証言をもとにあの日の記憶をたどります。
2004年10月23日、午後5時56分……。
最大震度7の激しい揺れが中越地方を襲いました。
中でも甚大な被害を受けたのは震源地周辺の中山間地域です。
19人が犠牲となった小千谷市。
市役所に勤める勝野和晃さんは自宅で子どもと入浴している時に被災しました。
家族の安全を確保したあと、急いで市役所へ、すると……。
〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「塩谷という集落で家がつぶれていて助けに来ていただきたいというので、市の方に要請があったので、その時間には自衛隊が小千谷に向かっていて、待機している状態だったので、自衛隊を塩谷に派遣して救助しようということが内部で決まった。そこまで自衛隊の部隊を案内する職員がいないかと」
当時の記録をまとめた資料によると……。
塩谷地区の家屋が倒壊し7名が下敷き、現地を熟知している市職員3名を先導者に選抜……。
そのうちのひとりが当時、駅伝クラブに所属していた勝野さんでした。
〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「たまたま駅伝部のメンバーがそろっていたので」
Q)勝野さんが手を挙げたのですか?
「3人同時でみんな、ここにいても何もすることができないですし、少しでも役に立てればなと」
駅伝クラブの3人は旧川口町の天納地区で自衛隊50人と合流……。
その日の夜、塩谷集落に向かって歩き始めるのです。
〈小千谷市役所 建設課 勝野和晃 課長〉
「気持ちは早く行きたかったんですけど、余震も続いているし、足元も暗くてどこに割れ目があるか分からないような道路を歩いているので、ゆっくりと歩いて行きました。怖かったですね、特にトンネルの中で余震があってみんなここで死ぬのかなと」