【特集】戦後79年 ウクライナ女性が空襲経験のある長岡市に 夜空を彩る長岡花火のもとで いま思うことは 《新潟》
今年も多くの観客を魅了した「長岡まつり大花火大会」。
この花火には長岡空襲で亡くなった人への慰霊、平和への願いが込められています。
今年、花火を見た一人のウクライナ人女性がいます。
焼け野原から復興を遂げた長岡……
そして空襲経験者と交流して今も戦禍を被る“ふるさと”へ思いを寄せていました。
今年も長岡の夜空を彩ったのは…… まぶしいほどに輝く大輪の花。
しかし、79年前同じ空には……
人や町を破壊するための兵器が火を放っていました。
1945年8月1日午後10時半、アメリカ軍が16万発以上の焼夷弾(しょういだん)を市街地に投下した長岡空襲。
悲しみにまちが包まれる中、翌年、長岡まつりの前身である「長岡復興祭」が8月1日に開催されました。
それを機に、毎年2日と3日に花火が打ち上げられているのです。
しかし……
Q)なぜこの日に行われているか知っていますか?
〈仙台から来た観客〉
「あ~わからない」
Q)8月1日に長岡で空襲があってこの日に合わせてということで……知っていましたか?
〈神奈川・東京から来た観客〉
「いや、初めて知りました」
今では全国から観客が集まる夏の一大イベント。
しかし、花火に込められた願いを知らない人も多くいます。
この花火を見るためやってきた一人の女性…… ミロンチューク・ヴィクトリアさん。
ウクライナの首都、キーウ出身です。
〈ミロンチューク・ヴィクトリアさん〉
「ウクライナも色んなことがあるので、ウクライナのことを日本人に伝えて日本のことも勉強するために来ました」
2022年、経営を学ぶため新潟市内の大学へ留学生としてやってきました。
ヴィクトリアさんが日本に来る2か月前、ロシアによる軍事侵攻が始まりました。
2022年2月24日の朝急に町中にサイレンが鳴りました。
訳も分からず逃げたといいます。
両親と暮らしていた町に大きな被害はありませんでしたが、父の実家の町にはロシア軍が攻め入りました。
破壊されたマンション……
ウクライナ人の像の頭部には銃弾が撃ち込まれています。
この町に住んでいた親戚が犠牲になりました。
〈ヴィクトリアさん〉
「ロシア軍が入った田舎で、車で逃げようとしたら車にいた全員が殺されました。ロシアとどの距離で離れても安全とはいえない。ウクライナはどこでも」
ふるさとを襲った悲劇……。
■長岡空襲を経験した人に会いに
79年前、同じような経験をした人がいると聞いて長岡にやってきました。
〈小林善雄さん〉
「長岡空襲の時に爆弾が落ちた痕がありますんで、そこをご覧いただいて」
6才で空襲を経験した小林善雄さんです。
現在はボランティアとして戦争遺跡である水道タンクを守っています。
建物に入ると、天井には、焼夷弾が落ちた痕が……
〈小林善雄さん〉
「私の友達が……焼夷弾に当たって足が皮一枚になって、翌日あったかいごはんを食べて死にたかったって亡くなった」
花火が打ちあがる信濃川の土手にも多くの人が逃げ、上空を飛行機が飛び回っていたといいます。
〈ヴィクトリアさん〉
「79年前のことだって、今日ウクライナで毎日起こっていることと変わらないです」
ヴィクトリアさんが当時の長岡とウクライナの現状を重ね合わせるように、長岡空襲の経験者も、当時の自分をウクライナの人々に重ね合わせます。
〈志賀貞雄さん(当時7才)〉
「私たちも長岡も戦災にあって20年前に中越地震があってみんなそれぞれ元気でいればなんとか復興できるので、皆さんにもとにかく死なないでほしいね」
2024年5月、2年ぶりにウクライナに帰ったヴィクトリアさん。
ヴィクトリアさんの町では2年前よりも大きな被害はなく安心した一方、復興が進んでいなかったことが衝撃だったといいます。
〈ヴィクトリアさん〉
「あまり変わっていないことがひとつのびっくり。キーウでも攻撃の痕が残っている建物も残っているので実際の目で見たらすごく怖くて」
危険と隣り合わせの中、両親は現在もキーウで暮らしています。
〈ヴィクトリアさん〉
「両親はもちろん心配……でも心配の気持ちはいっぱいなんですけど遠くにいて何もできない……その方が心配のレベルも超えるほどいっぱい」
長岡に大切な家族を失った人がいます。
7才で長岡空襲を経験した谷芳夫さん87才です。
夏休みの初日だった8月1日。
家族が寝静まった頃にサイレンが鳴りました。
目覚めると外は真っ赤。
母と姉と3人で逃げだしましたが母が急に家へ戻ってしまったといいます。
〈谷芳夫さん〉
「戻っていく母親にかーちゃーんって大きな声で言ったんだけど逃げてくる大勢の人たちで見えなくなってそれが母親との別れになるとはその時思っていなかった」
10人兄弟の末っ子の谷さんを誰よりも優しく育ててくれた最愛の母を奪われました。
それ以来、”あるもの”が恐ろしくなってしまったといいます。
〈谷芳夫さん〉
「花火をね、私は中学生くらいまでは嫌いだった。花火が上がるときは長岡市町中が電気消して真っ暗になるんですよ。サイレンが鳴ってそのサイレンが空襲の時の空襲警報と同じでしょ。真っ暗になってだいぶ時間をおいてドドーンと花火あがるわけね。それが戦争と重なって最初花火嫌いだった。でも今は花火を見るとなぜか涙が出る。花火を見て涙が出るのはなんか関係あるかね?」
長岡で出会った空襲の経験者たち。
戦後の苦しみを乗り越えてきた彼らの姿から想像したのはウクライナの未来でした。
〈ヴィクトリアさん〉
「恐ろしい経験をした人と会ったけど笑顔で生き続けています。私たちも時間が経って笑顔の将来を迎えられるんじゃないかなと思いました」
空襲から79年。
あの日の出来事を語る人は少なくなってきました。
しかし長岡花火は、毎年私たちに悲劇を思い出させてくれます。
〈ヴィクトリアさん〉
「人は記憶される限り生きています。私たちが人、ことを思い出すまではそのことが生きています。過去のことを忘れちゃいけない」
白菊鎮魂の願いが込められた白一色の花火「白菊」が打ちあがりました。
ウクライナ出身のヴィクトリアさん。
79年前空襲にあった長岡と今も戦火が広がるウクライナを重ね合わせていました。
Q)(花火の)白菊はどうでしたか?
〈ヴィクトリアさん〉
「きれい……なんですけどその美しさの後ろで色んな命が関わっていてそれを悲しく思います。色んなことが悲しくあっても将来はがんばって生きていきたいと思います」
「花火はものすごく爆弾に似ているし花火が飛んでいる音も爆弾に似ている感じがした。花火を爆弾の比較をしないような時代が来てほしいただ花火だけを楽しめるような時代が来てほしい」。
長岡とウクライナ……
その空を彩るのは爆弾ではなく、人を笑顔にする花火であってほしい。
時代と国を超えた願いは今も変わることはありません。