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「灯りはついているが反応がない」消防隊員…「どうして、そんなやつを治療するんだ」病院に電話 松本サリン事件 私の30年①【長野】

2024年6月26日 20:28
「灯りはついているが反応がない」消防隊員…「どうして、そんなやつを治療するんだ」病院に電話 松本サリン事件 私の30年①【長野】
松本サリン事件

死者8人、重軽症者およそ600人、1994年に発生した松本サリン事件からまもなく30年です。
事件に関わった人たちの30年目の証言をシリーズでお送りします。
初回は原因物質がわからない中で対応にあたった、消防隊員や医師などの証言で事件を振り返ります。

1994年6月27日。
住宅街に異変が起きたのは夜11時ごろでした。

【芳川消防署中村潤署長】
「覚知が23時09分ということで急病ということで指令が入りました」

松本広域消防局・芳川消防署の中村潤署長。
当時、事件現場近くに住む河野義行さんからの第一通報を受けて現場に駆け付けました。

【芳川消防署中村潤署長】
「河野さんですか?と隊長が聞きまして私ですということでどうされました?ということでお聞きしましたら中に妻が苦しまれている泡を吹いて倒れているということを言われまして、河野さん自身も実際苦しいと言っていましたので河野さんは救急車に乗っていただき」

さらに、無線からは負傷者多数との情報。

事件が起きたのは、松本城から北東に500メートルほど離れた松本市北深志の住宅街。(現場)最終的に8人が死亡、重軽症者はおよそ600人でした。
しかし、猛毒がまかれたテロ事件だとわかるのはまだ先のことでした。

【芳川消防署中村潤署長】
「灯りはついているが反応がない、あるいはそこをあけると中から声がするという現状でして1人の方は中で錯乱状態という方を見まして」

症状が重い患者など18人が搬送された松本協立病院。

【松本協立病院鈴木順理事長】
「原因が最初よくわからず、合併症がその後どうなっていくのか全然わからなくて非常に不安だったことを覚えています」

現在、理事長を務める鈴木順医師は事件当時、研修医として治療にあたりました。
患者には眼の瞳孔が収縮した状態の縮瞳や発汗、おう吐、それに手足のしびれなどの症状がみられたといいます。

【松本協立病院鈴木順理事長】
「縮瞳という特徴的な症状がありましたので、症状自体は有機リン中毒だろうと当初から考えていました。農薬で自殺未遂で有機リン中毒というのを時々(診療で)経験していたので、同じようなものだろうという想定で治療したのを覚えていいます」

そんな時、病院を訪れていた警察から驚きの言葉を耳にします。

【松本協立病院鈴木順理事長】
「最初に担当した患者さんの中に、河野(義行)さんがいらっしゃったが、はじめ普通に診察させていただいて、治療を開始した後に、県警の方から被疑者であるという話を聞いて非常にびっくりしたのを覚えています」

警察は、有毒ガスの発生源と当初みられていた第一通報者の河野義行さん宅を「被疑者不詳の殺人容疑」で家宅捜索。疑惑の目を向けられた河野さんが入院していたのが松本協立病院でした。

【松本協立病院鈴木順理事長】
「どうして、そんなやつを治療するんだみたいな、(電話が)とてもたくさんかかってきたのと、実際にそのような封書もたくさんありました」

一方、原因物質を調べていたのが県衛生公害研究所でした。

当時の職員で信州大学工学部特任教授の小澤秀明さんは突き止めた正体に驚きを隠せなかったといいます。

【元県衛生公害研究所の職員 小澤秀明さん】
「職員の中でもサリンといったときにサリンってみんなクエスチョンつけて「サリン?」っていう。そんなような反応。調べるとこれって化学兵器の毒ガスの成分の一つだよって」

有機リン系の化学物質・サリン。

事件の数日後にはその可能性を突き止め、海外の論文などを参考に「サリン」と裏付けたといいます。

【元県衛生公害研究所の職員 小澤秀明さん】
「そもそもサリンってなんでこんなところにあるのそこが一番の大きな…ある面ではずっともやもやしているものでしたね」

9か月後に東京で起きた「地下鉄サリン事件」の後、松本の事件を起こしたのも麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚を教祖とするオウム真理教だと判明しました。

当時、オウム真理教は松本市内に松本支部道場を建設。これに地元住民が反対しオウムを相手に土地の明け渡しを求める裁判を起こしていました。

山内道生弁護士
「(オウムが)地主を騙したとこれは民法上詐欺になりますので」

松本サリン事件は裁判の判決を控えたオウムが、裁判の妨害とサリンの殺傷能力を確かめるため裁判官の官舎を狙ってサリンをまいたとされています。一連のオウム真理教に関する事件では13人が死刑となりました。

当初、疑惑の目が向けられ事件で妻を失った河野義行さん。
5年前のインタビューで自身の人生についてこう振り返っています。

【河野義行さん】
「ひとつは恨んでどうなるのと過去は変えられないわけでしょ。恨んで妻が元気になって戻るとかあれば恨むことの意義はあるけれど」「不幸なことも人生の中の歴史の1コマということで切り替えていかないといってみれば不幸の上に不幸を上塗りするような人生になってしまうと自分で思っている」

その河野義行さんですが、今回、テレビ信州の取材に対し「70歳を過ぎて自分は消えていく存在」だとお話しされ、事件から30年にあたってのコメントなどは出さないということです。