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【回顧2024】最後の日朝首脳会談から20年…切られなかった「訪朝カード」拉致被害者・曽我ひとみさん単独インタビュー

2025年1月2日 16:00
【回顧2024】最後の日朝首脳会談から20年…切られなかった「訪朝カード」拉致被害者・曽我ひとみさん単独インタビュー

 最後の日朝首脳会談から20年となった2024年。拉致問題の解決に向けた進展がみられない中、曽我ひとみさんがウェークアップの単独取材に応じました。2024年に入ってから、北朝鮮側が日朝首脳会談に言及する動きも出ていますが、訪朝の実現は…。北朝鮮と対峙した当事者たちの証言から考えます。

■証言 46年前の「拉致の記憶」

 拉致被害者の曽我ひとみさん。2024年6月、これまでほとんど受けることがなかったテレビの単独インタビューに応じました。

拉致被害者 曽我ひとみさん
「4月から新潟県佐渡市の拉致対策係でみなさまに支えられながら仕事を始めました。微力ながらもう少し何かできるのではないか(と思い取材を受けました)」

 曽我ひとみさんが拉致されたのは、1978年8月12日。当時は19歳の准看護師で、母・ミヨシさんと買い物に出かけた帰り道でした。時間は午後7時すぎ、親子が拉致されたのは、自宅まであと少しの場所でした。

 曽我ひとみさん
「後ろから3人の男の人が歩いているのが見えまして、私たちも早足になって。その瞬間だったんですけど、引っ張り込まれて手足を縛られて口も塞がれて南京袋のようなものを頭から被されて」

 拉致されたすぐ近くには、大きな川が流れています。曽我さん親子は、河口の近くの河川敷あたりから袋にいれられたまま船に乗せられ、船はそのまま沖合に出たものとみられています。沖に出て800キロほど先にある北朝鮮に到着した後、母・ミヨシさんのことを尋ねると―

 曽我ひとみさん
「お母さんは日本にいるから、元気でいるからまあ心配しなくてもいいと(言われました)」

■北朝鮮での生活…横田めぐみさんと生活 ジェンキンスさんと結婚

 拉致されて間もない頃、心の支えとなったのは、同じ拉致被害者の横田めぐみさんの存在でした。横田めぐみさんは、曽我ひとみさんの1年前に、13歳で拉致されていました。ふたりが当時交わしていた会話の一部を教えてくれました。

 曽我ひとみさん
「横田めぐみさんと、そんなに長くはないのですが、一緒に生活できたことが、すごく私にとってはありがたかったです。めぐみさんが私の足のケガを見て『どうしたの?』って聞いてくれました。『襲われたんだけれども、まだそれからお母さんの顔は見ていないんだ』と答えました。すると、めぐみさんは『大変だったね』と。『実は自分も襲われて今ここにいるんだ』っていう話をしていまして、ふたりとも同じ境遇なんだなと感じました」

 曽我ひとみさんは、拉致された2年後にはアメリカ軍兵として韓国で駐留中に、脱走して北朝鮮に入ったジェンキンスさんと結婚。2人の娘が生まれ、子育てに追われる日々が始ました。

 曽我ひとみさん
「みんなで仲良く生活はしていたが、夜になるとやはり母のこととかいろんなことを考えていました。(夫・ジェンキンスさんは)『いつか絶対お母さんにも会えるし、日本にも帰れると思うから一緒に頑張ろう』と言ってくれていました。」

■動き始めた運命…日朝首脳会談実現の舞台裏

 曽我さんの運命が大きく動いたのは2002年のこと。当時の小泉首相が、総理大臣として初めて北朝鮮を訪問し、日朝首脳会談が行われたのです。この会談の交渉にあたった、外務省アジア大洋州局長だった田中均さんが、交渉の舞台裏を語りました。

 外務省アジア大洋州局長(当時)田中均 日本総研国際戦略研究所特別顧問
「ひとつは拉致問題を解明するということであり、ひとつは北朝鮮の核ミサイル問題を封じて、より安全な体制を作るということ、それを僕はやりたいと思った。小泉さんは『いやそれはやってくれ。だけど秘密でやってくれ』と」

 そして、田中さんは、北朝鮮側のミスターXと呼ばれる人物との交渉に着手しました。

 田中均 特別顧問
「記録係が、相手の名前というのは決して確証を得るものではないから、向こうのことをミスターXと呼び、僕のことをミスターYと呼ぶ。彼(ミスターX)は『軍の中将』とか言ってましたけどね」

 ミスターXは、交渉では決して拉致の事実を認めなかったといいます。

 田中均 特別顧問
「後で言ってましたけれどね。拉致を認められるのは金正日だけだと。拉致という言葉は使わないけど行方不明者の消息を明らかにするという形で交渉した。相手にとって結果的にはプラスになる、益になることは何だろうかというとね、それは説得の世界なんですよ。要するに、信頼がベースにならないと交渉なんて危なくてできない。」

 日朝首脳会談実現の決め手は、総理の決断でした。

 田中均 日本総研国際戦略研究所特別顧問
「小泉さんのところに行ってね、『どうしますか?ずっと一年間交渉してきて必ず結果が出てくるという確信を持っています』と。そしたら小泉さんは、『もはや自分が行かないという選択肢はない。だから一も二もなく行きますよ』と」

こうして実現した2002年9月に行われた日朝首脳会談の席。金正日総書記(当時)は、「誠に忌まわしい出来事で率直におわびしたい。関係者の処罰を行った。」と、初めて拉致を認め謝罪。5人が生存、8人が死亡したと伝えました。この年、曽我ひとみさんは、夫ジェンキンスさんと娘2人を北朝鮮に残し、日本に帰国。しかし、一緒に拉致された母の行方は分からないままでした。

曽我ひとみさん
「(母の消息は)日本の調査団が来たときに聞きました。『お母さんは日本にはいませんよ』と。今までずっと騙されてきたんだなという気持ちと、じゃあどこであれからどうしたんだろうって」

2年後の2004年には2度目の日朝首脳会談が行われ、その結果、曽我さんは、インドネシアで夫・娘との再会を果たしました。

 曽我ひとみさん
(Qあのときジェンキンスさんにどんな言葉をかけた?)
『ごめんね』って言った気がします。会えない期間があったので、一緒にいられなかったから。」

■最後の日朝首脳会談から20年 岸田首相“訪朝カード”に注目も

 それから20年。北朝鮮側は「拉致問題は解決済み」と主張し、いまも首脳会談には至っていません。日本側は、「8人の死亡を裏付けるものがない」として、被害者の即時帰国と納得のいく説明を求め続けていますが、目立った進展はないままです。

 膠着状態が続く中、拉致問題を生徒たちに課外授業などで伝え続ける教師がいます。東京・立川市立第七中学校の佐藤佐知典教諭。佐藤教諭は、新潟出身で、妹が横田めぐみさんと中学校の同じ学年でした。めぐみさんの両親を招き、学校で講演会を行ったことも。

 生徒
「一番感じたのは、考え続けなければならないということ。続けないと何も変わらないし
 そのまま拉致問題も風化されてしまうし…」

 生徒
「今こうして自分が学校に来ることができていたり、そういう当たり前のことも決して当たり前じゃないから、日々生活できていることにありがたく過ごしていきたいと思っています。」

 ただ、年々、拉致に対する関心の低下を感じていると言います。

 立川市立第七中学校 佐藤佐知典教諭
「一人のめぐみさんが、中学生が拉致されたいなくなったことは、一教員として全教員の先生方がもう頭の隅に入っていると思うんですけど、知識としては正直教員で拉致問題について関心を持っている方が本当に減ってしまって、若い先生方にお願いしますと言っているのですけどね」

 最後の日朝首脳会談から20年。事態の打開に向けた動きは、再び活発になりつつあります。2023年、曽我ひとみさんと面会した岸田首相(当時)は、「日朝首脳会談を早急に開催するべく私直轄のハイレベルでの協議を行っていきたい」と述べました。

曽我ひとみさん
「少しでも前に進むのかな、と。交渉のテーブルを一日も早く、一時間でも早く作っていただきたいです。」

 そして、2024年、北朝鮮側も動きを見せました。金与正氏が、「すでに解決された拉致問題を両国の関係の展望の障害物として置かなければ、首相が平壌を訪問する日も来るだろう」とする談話を出したのです。しかし、日本側が「拉致問題が既に解決されたとの主張は全く受け入れられない」と表明すると、一変して「日本側とのいかなる接触も交渉も無視して拒否する」と態度を硬くしました。

 安倍政権下で拉致担当大臣を務めた拉致議連会長・古屋圭司議員は、訪朝には結果が求められると指摘しています。

 安倍政権下で拉致担当相 拉致議連会長 古屋圭司議員
「条件をつけずに会うというのは会うこと自体はいいんですけど、やっぱり解決にはお互いのあれ(思惑)がありますよね。ちゃんと条件が整ったら行くべき。そうじゃない時に行くべきではない。」

 田中均 特別顧問
「こういうふうに政権が追い詰められた状況で、北朝鮮のような国とね、そう(交渉)するのはとっても危ないことですよ。足元をみられてしまう。」

■帰国後に自宅で見つけた“着物” 母・ミヨシさんへの思い

 曽我ひとみさんの母・ミヨシさんは93歳。友達のように親しかった母だったといいますが、いまも行方は分かっていません。単独インタビューの中で、曽我さんはあるものを見せてくれました。日本に戻った後、実家のタンスから見つかった、一着の着物です。

 曽我ひとみさん
「私が拉致をされたのが19歳なので、たぶん来年成人式じゃないですか。そのために母がこっそり準備をしていてくれたものなのかなと思いました。」

(Qもし次お母様に会うとき、どのようなお言葉をかけてあげたい?)
「まずは、たくさん謝ることがたくさんあるので、まずは『ごめんなさい』ってひと言、謝って。それからは、『この長い長い時間、本当に一人で大変だったね』と。そしていろんな話を、たくさん、たくさんしたいと思います」

■取材後記 切られなかった“訪朝カード” 石破政権の“一手”は

 この単独インタビューを放送したのは6月。その後、結局岸田首相は“訪朝カード”を切ることはなく、石破政権が誕生しました。

 石破首相は就任後、拉致被害者の家族らと面会した際、「拉致事件というのは誘拐事件ではない、国家主権の侵害である」と解決に向けて取り組む考えを強調しましたが、家族らは、石破首相が掲げる日朝両国の連絡事務所設置などに反対しています。一刻も早い解決が望まれる中、石破首相はどのような一手を打つのでしょうか。

(ウェークアップ 2024年6月8日放送分を一部加筆・編集)

最終更新日:2025年1月2日 16:00