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家庭内暴力から逃れた母が母子寮で死亡…一家は離散し児童養護施設へ 29年を経て男性が伝えたい思い【阪神・淡路大震災から29年】

2024年1月17日 0:00
家庭内暴力から逃れた母が母子寮で死亡…一家は離散し児童養護施設へ 29年を経て男性が伝えたい思い【阪神・淡路大震災から29年】

6434人が犠牲となった阪神・淡路大震災から17日で29年となりました。地震が起きた午前5時46分、神戸市の東遊園地で行われる追悼行事「1.17のつどい」で今年の遺族代表として言葉を述べるのは、震災で母親を亡くし、児童養護施設で育った34歳の男性です。男性の人生を支えたもの、そして、いま伝えたい思いとは―

■家庭内暴力から逃れ「神戸母子寮」で被災し母が死亡 一家は離散し児童養護施設へ

「震災で母を亡くして、その後、家族がバラバラになったんですけれど…1人でも元気になってくれる方がいればという気持ちで、今回、(遺族代表を) 引き受けさせていただきました」

1月10日、記者会見でいまの心境を語った鈴木佑一さん(34)。

29年前、夫の暴力や貧困などに悩む母親と子どもを受け入れる神戸市兵庫区の「神戸母子寮」で佑一さんは暮らしていました。母は、佑一さんと兄を連れて、生活費を浪費し酒を飲んでは暴れる父親から逃れてきたのです。

震災により、昭和初期に建てられた木造2階建ての母子寮は全壊し、母親2人、子ども2人、そして職員のあわせて5人が犠牲になりました。

佑一さんの一家が暮らしていた1階は、2階に押しつぶされました。佑一さんは目が覚めると、全く動けない状態で何時間も中に閉じ込められましたが、誰かが「ここに人がいる」と言って、がれきの中から救出されたといいます。佑一さんと兄は無事でしたが、母は冷蔵庫の下敷きとなり、亡くなりました。

鈴木佑一さん
「お母さんは全然違うところにいたんですよ。パッと見たら布団にくるまっている状態で、死んでいると分かりました。見た瞬間に、亡くなっていました」

母の富代さん(当時44)は面倒見がよく、周囲から頼りにされる存在だったといいます。しかし佑一さんは、当時まだ5歳。母のことは、おぼろげにしか覚えていません。

母と住まいを同時に失った佑一さん。引き取られた先は、児童養護施設でした。父は、2人は育てられないと、兄だけを引き取り、20歳になるまで、この施設で過ごしました。

佑一さんを預けることを決めたのは、母子寮の元職員・岡本由美さん(76)。約2年にわたり佑一さんの家族を支えていました。

岡本由美さん
「お父さんにお預けするという方法もあったんでしょうけれど、佑ちゃんがまだ幼かったということと、お父さん自身も育てられないということを伺っていて、私が親になって彼を育てるというわけにはいかないので、(児童養護施設に)お預けしたんだから、佑ちゃんをしっかりとここにお預けして、私はもう会いに来ないでおこうと。下手に会いに行っていたら、佑ちゃんが期待をしてしまう」

■『そのまま終わるのは嫌』輸入販売会社を経営

佑一さんは、地元・神戸で会社を立ち上げ、服と雑貨の輸入販売業を営んでいますが、今も児童養護施設に足を運んでいます。

親と切り離され、共に育った仲間たち…だからこそ、分かち合える思いがある。

鈴木佑一さん
「僕自身が自分の親とか家族を考えた時に、『自分が頼る人がいないな』という答えがあって、その時に、そのまま自分は終わっていくのか、上がるのか、という問いかけがあって。自分の中で『そのまま終わるのは嫌やな』というのがすごくあったんですよ、自分の中で」

同じ施設で佑一さんと一緒に育った政岡賢さん(34)は、「施設の出身者はかわいそうとか、そういうイメージしかないのをずっと(佑一さんは)分かっていて、僕が『自分の親が助けてくれるんちゃうか』みたいなことを言ったとき、『お前はやるしかないねんで』と言ったのは鈴木が初めてです。『自分でやらなあかんねんで』とズバッと言ってくれたのが鈴木です」と振り返ります。

佑一さんの手元にある家族のものは腕時計とマフラーの2つだけ。大学生の時に受け取った、母・富代さんの形見です。届けてくれた人から、預かっていたのは、母子寮の元職員だと教えてもらいました。

一緒に入っていた手紙には、「辛い思いをさせてごめんなさい」「鏡で笑ったら、(佑一さんの)顔はお母さんにそっくりだよ」と書いてあったといいます。手紙の送り主は、岡本さんでした。

鈴木佑一さん
「 (母親は)いつも膝の上に抱っこして可愛がってくれていたという話だった。自分が大事にされていたんだというところがすごく嬉しかった」

■元職員の再会を通じて親族ともつながり…兄とも約20年ぶりに再会果たす

2019年、岡本さんの連絡先を知った佑一さん。会うことに迷いはありませんでした。

佑一さん
「こんにちは。お久しぶりです」
岡本さん
「佑ちゃん?」

震災以来、児童養護施設に預けた日のことを忘れたことはないという岡本さん。

岡本さん
「大きくなって」
佑一さん
「大きくなりました」
岡本さん
「ごめんね佑ちゃん。ごめんね」
佑一さん
「いきなり泣かれたら、僕も泣きそうになる」

2人の目には涙があふれていました。

岡本さん
「あんな地震が無かったら、お母さんと今もずっと…お母さんもすごく喜んでいるやろうし。お母さんが言い当てていたよ。『私には佑がいるから大丈夫』といつも言っていた。だからお母さんは佑ちゃんを見抜いていたよ。『この子は頭が良いし、優しい子だから先生頼むよ』と佑ちゃんの事をよく言っていた」

岡本さんとの再会をきっかけに母のきょうだいなど、親戚とのつながりを取り戻した佑一さん。1か月半前には約20年ぶりに兄と会うこともできました。

17日は震災後初めて、兄と2人そろって母の墓前に報告するといいます。

鈴木佑一さん
「母は亡くなりましたけれど、こうやって前を向いて生きていたら喜んでくれるかなと思いますし、やっぱり出会った人に感謝したいので、しっかり生きていくことを伝えられたらなと思います」

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