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【特集】フジファブリック志村正彦 バンドは休止発表も…故郷に息づく“変わらぬ記憶” 山梨県

2024年7月30日 13:00
【特集】フジファブリック志村正彦 バンドは休止発表も…故郷に息づく“変わらぬ記憶” 山梨県

 今年でデビュー20周年を迎えたロックバンド「フジファブリック」は、来年2月をもって活動を休止することが発表されました。

 20年前、中心となってバンドを結成したのが、志村正彦さんです。ボーカルを務め、ほとんどの楽曲で作詞・作曲も手掛けていましたが、2009年に29歳の若さで急逝しました。

 突然の死から15年ー。フジファブリックは大きな節目を迎えようとしていますが、志村さんや志村さんが遺した音楽の記憶は変わることなく、今も故郷にあり続けています。

 富士山の麓、山梨県富士吉田市で生まれた志村正彦さん。フジファブリックのフロントマンとして「若者のすべて」や「茜色の夕日」など、今なお多くの人に愛される数々の楽曲を世に送り出しました。

 44回目の誕生日に当たる7月10日。志村さんが眠る墓には、今年も大勢のファンが訪れていました。

 大阪から来たファン:「志村さんの誕生日が7月10日で私も7月10日、ちょうど私が30歳を迎える年でして。29歳で亡くなった志村さんが踏むことのできなかった30歳を大きな節目として今後の人生、今まで音楽に支えられたお礼や自分の人生をより一層、頑張っていきたい思いを報告したいと思い、足を運ばせていただきました」

 墓前には生前、志村さんが愛したコーラとタバコが絶えることはありません。

 時代を超え、聞く人の心をつかんで離さない志村さんの音楽。その「核」となっているのが、故郷の情景を感じさせる歌詞です。

 『あの街並 思い出したときに 何故だか浮かんだ 英雄気取った 路地裏の僕がぼんやり見えたよ また そうこうしているうち 次から次へと浮かんだ 残像が 胸を締めつける』(「陽炎」より)

 彼の生み出す楽曲には、富士吉田市への深い愛情が込められているー。志村さんの小中高の同級生だった渡辺直さんは、ステージで歌う志村さんの姿を見て気付きました。
    

 志村さんの同級生 渡辺直さん:「本人が生前、自分を紹介するときに『山梨県富士吉田市出身の志村正彦です』と“富士吉田市”まで言っていて、誇りを持ってこの街のことを言ってくれていたので。大人になってからだけど、すごくうれしいなと思う。もしも、志村さんが今も生きていたとしたら。富士吉田のことをもっと歌ってくれていたのかな...」

 志村さんのファンが集まる小さな洋食屋が、富士吉田市にあります。志村さんが生前、通っていたレストラン「M-2」です。

 大好物だったという「大根スパゲッティ」は、ファンと志村さんとをつなげるソウルフードとなっています。    

「M-2」を訪れたファン:「(志村さんが)食べてたんだなあって思ったり。ちょっとでも志村君を感じれたらと思い楽しんでいます」「志村さんが亡くなって結構時間がたつんですけど、M2さんとか富士吉田の方が志村さんのことを思い出す場所をたくさん提供してくれるので、すごくファンとしてはありがたい」

 姿は見えなくとも、この街には志村さんが生きた証しが確かに刻まれています。

 志村さんの誕生日に合わせ、富士吉田市の防災無線のチャイムに代表曲「若者のすべて」が流れるようになり今年で12年。富士急行線・下吉田駅ではこの日、たくさんのファンが“その時”を待っていました。

夕方6時ー。チャイムが鳴り始めると同時に、一日中降り続いていた雨がやみました。

 チャイムを聞きに訪れたファン:「今年のチャイムは(フジファブリックの)活動休止の発表もあって複雑な気持ちがするんですけど、歌は消えないので。ちょっと寂しい気持ちもあるけど、ここに来ると志村君に会えるような気がする」「どういう思いで(チャイムを)聞けばいいのかという感じだったけど、志村君のことを思うと笑顔で聞いてあげることが大切だと思ったので、笑顔で聞きました」

 チャイムを企画した同級生の渡辺雅人さん:「(本人は)“余計なことするなよ”って言っていると思うんですけど、少しでもこうやってファンの方々が喜んでくれたり地元の方が喜んでくれるということをしているので、ぜひ許してもらいたいなと思う」

 故郷を愛し、音楽とともに29年間を駆け抜けたミュージシャン・志村正彦。
 
 彼の歌はなぜ、死後15年を経ても輝きを失わないのか?その理由を知りたかったら、彼が過ごした富士吉田市を歩いてみてください。その風景の中にきっと、答えがあるはずです。

『最後の最後の花火が終わったら 僕らは変わるかな 同じ空を見上げているよ』(「若者のすべて」より)

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