【学生たちの戦争】ペンを銃にかえられて 九州帝国大学の壮行会で答辞を読んだ “軍国少年” 書き残した言葉は 学徒出陣の記録と記憶
太平洋戦争中、当初は徴兵を猶予されていた大学生たちが戦場に送り込まれた「学徒出陣」。FBSでは、その記録と記憶をたどる取材を続けてきました。今回は、当時の九州帝国大学から出征する際、学生を代表して答辞を読み上げた元学徒兵の思いをたどります。
“国内最大級”とも言われる、福岡市東区の九州大学・箱崎キャンパス跡地の再開発計画。かつて、ここにあった工学部のグラウンドで、1943年10月19日、当時の九州帝国大学から出征する学生たちの壮行会が行われました。
■中楯興さんの日記より
「からりと晴れ渡った一点の雲もない深い秋空の下、午後一時半より壮行会。今更ながら胸の中にひらめくもの。異常な緊張におそはれた」
太平洋戦争中、戦況が悪化した日本は深刻な兵力不足を補うため、1943年秋、理系などを除く20歳以上の大学生たちを戦場へ送り出すことを決めました。「学徒出陣」です。
当時は、高等教育機関への進学率がおよそ3%と言われた時代です。国の将来を担うため、学業に励むべき学生たちはそれまで徴兵を猶予されていたのです。
■九州大学 大学文書館・藤岡健太郎教授
「応召者名簿。在学中に召集されて出陣した人たちの名前ですね。」
九州帝国大学からは、法文学部や農学部などの学生691人が一斉に出征しました。
出征した学生の中には、特攻隊に志願した者もいました。爆薬を搭載した魚雷に乗り込み、敵の艦船に体当たりする特攻兵器「回天」。九州帝国大学の法文学部から出征した水井淑夫さんは、回天に乗り込んで出撃し、23歳で命を落としました。終戦5日前のことでした。
九州帝国大学から出征し、戦死したことが分かっている元 学徒兵は、水井さんを含め少なくとも60人を超えています。
私たちは、あの壮行会に参加していた元学徒兵の遺族を訪ねました。黒木龍三さん(71)です。九州帝国大学から出征する学生を代表して答辞を読み上げたのが、龍三さんの父・三郎さんでした。
■黒木三郎さんの答辞より(1943年10月20日付 西日本新聞)
「皇恩にこたへ、大學學徒としての名誉を體(たい)して勇躍。皇國百年の大業に馳せ参ぜん」
■三郎さんの息子・黒木龍三さん(71)
「ペンを銃にかえて、そして天皇のための盾となって、戦場に赴く決意を固めた。そういう趣旨のことを答辞で述べた。」
“あの言葉は事前に大学側の検閲を受け、一部が削除されたものだった”。三郎さんは生前、そう明かしていたといいます。
■息子・龍三さん
「父は大学に戻って学問を続けたいという欲求があったようで『戦禍が収まり再び学園に戻ったならば、戻ってこられたら勉強を続けたい』と。ところどころ向こうの気に障ったみたいで、削除せよと命じられたと。」
ただ、三郎さんは自分を「軍国少年だった」と評し「あの文章は甘かった」と振り返っていたといいます。出征後に肺結核を患い、戦場に立つことなく終戦を迎えた一方で、多くの友を失いました。
戦後は大学教授や弁護士として、戦争放棄を掲げる「憲法9条」を守ると訴え続けた三郎さん。学徒出陣の壮行会で答辞を述べた記憶が、父を突き動かしていたのではないか。龍三さんは、そう考えています。
■黒木龍三さん
「自分が意識せずに、答辞を読んでまで若い人、自分の仲間を戦争に向けて鼓舞した。反省が非常にあったと思います。」
三郎さんが88歳で亡くなる3年前に、書き残した文章があります。そこには「私は戦争を憎む」と書かれていました。
FBSでは、突如、戦争に送り込まれた元学徒兵たちの思いに迫るドキュメンタリー番組を製作しました。目撃者f「学生たちの戦争学徒出陣 ペンを銃にかえられて」。6月30日(日)深夜放送です。