愛子さまが借りた黒田清子さんのティアラ
愛子さまが成年行事で着けられたティアラは、叔母の黒田清子さん(紀宮さま)から借りた品でした。コロナ禍で新調しなかったということだけでなく、真摯に公務に取り組んだ叔母への敬意と、足跡に学ぼうとされるこころがあってのことだと思います。(日本テレビ客員解説員 井上茂男)
【皇室コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」
第13回 <愛子さまが借りた黒田清子さんのティアラ>
■叔母への敬意と足跡に学ぶ思いが感じられた着用
12月5日。上皇ご夫妻のもとへ成年の挨拶に向かわれる愛子さまを東京・高輪の仙洞仮御所の前で待ちました。午後1時20分。青空の下、「おめでとうございます」という沿道の声に包まれながら、白バイの先導のない4台の車列がゆっくり近づいてきました。
愛子さまは2台目に乗られていました。白いローブデコルテ、ティアラが見えます。マスク越しでも柔らかな笑顔がうかがえ、全開の窓から右に左に手を振られています。小さいころにはなかなか見ることができなかった笑みです。時の流れと成長を感じました。沿道からよく見えるようにつけられた室内灯に頭上のティアラが光ります。その瞬きに16年前の光景が重なりました。
2005(平成17)年11月12日。結婚式を3日後に控えた清子さんが、天皇皇后だった上皇ご夫妻にお別れの挨拶をする「朝見の儀」の時です。清子さんは儀式が終わって退出されるご夫妻を見つめ、閉じられた扉を3秒ほど凝視し、静かに踵(きびす)を返して退出していきました。正装の頭上で輝くティアラに「これが見納め」と思ったものでした。
清子さんが二十歳を迎えたのは1989(平成元)年4月です。昭和天皇の喪でお祝い行事は延期され、翌年3月に行われました。それまで内輪で行われてきた行事が「時代も違うので男性に近い形」にされたのはこの時です。平成皇室の始動と共に清子さんの活動が始まります。天皇の娘という同じ立場の池田厚子さんと島津貴子さんは21歳で結婚して皇室を離れ、先例はありませんでした。
■被災者の中に飛び込んだウォーク
初めて公務を取材したのは1990(平成2)年3月、神戸で行われた豪華客船「にっぽん丸」の命名・進水式でした。巨大な船をつなぐ綱を斧で切る清子さんは、多くの視線を浴びて緊張して見え、皇室を取材するようになって間もないこちらも身を硬くしたことを思い出します。
「好きなことは目立たないこと、嫌いなことは目立つこと」。かつて長く仕えた側近が話していましたので、皇室を離れて久しい清子さんのことを書くのは気が引けますが、忘れられない公務があります。
2001(平成13)年に行われた阪神・淡路大震災の「1・17ひょうごメモリアルウォーク 震災6周年追悼のつどい」。お言葉を述べる式典への出席だけでなく、直前に被災した人たちと2キロを歩くウォークにも参加することが決まりました。警備当局が難色を示します。「それでは行く意味がありません」。清子さんは譲らず、アノラック姿で飛び込んで被災者の話に耳を傾けました。
後にこう振り返っています。「大切な家族を失った人、家が半壊、あるいは全壊して移り住まなければならなかった人、大事にしてきたものほどあっけなく壊れてしまったと静かに話す人、風邪を押してでもウォークに参加しようと遠方から来た人、それぞれの1月17日が、どんなに大変なものであったか頭では理解しながらも、私の想像の及ばないものであったことを改めて実感し、言葉にならない思いを感じました」
全国ボランティアフェスティバル、盲導犬育成のチャリティーコンサート…。宮中行事のほか、天皇や皇太子が出席しない催しに参加していきます。ブラジル、ブルガリア、フランス、ペルー…。外国公式訪問も8回14か国。「プリンセス・サヤコ」の名は海外で有名でした。ひたむきに、一本芯を通して、公務を重ねてきました。お言葉には味わいがありました。
■失敗も、後悔も、怖さも感じながら臨んだ公務
『ひと日を重ねて 紀宮さま 御歌とお言葉集』の中に「三十六年間を振り返って」という一文があります。「国内外の務めや宮中の行事を果たす中には、失敗も後悔もあり、未熟なために力が尽くせなかったと思ったことも多々ありました。(略)目に見える『成果』という形ではかることのできない皇族の仕事においては、自分に課するノルマやその標準をいくらでも下げてしまえる怖さも実感され、いつも行事に出席することだけに終始してしまわないように自分に言い聞かせてきたように思います」
失敗、後悔、ノルマ…。皇室の取材ではまず聞くことのない言葉と、出席だけに終わらないよう模索し続けた心の内がうかがえ、感じ入りました。
清子さんのつぶやく「ドンマーイン」が上皇ご夫妻の救いだったことは有名ですが、陛下の「人格否定発言」に衝撃が走り、上皇さまが国民への補足説明を促された時、兄の相談相手になり、間を取り持ったのも清子さんでした。上皇ご夫妻だけでなく、両陛下にとっても、大事な家族なのです。
成年行事で身につけるティアラについて両陛下と愛子さまが相談された時、コロナ禍で苦しむ人たちに配慮して当面は新調しないことを決め、清子さんの品を思い浮かべたところに、16年間にわたって内親王として公務に尽くした妹、叔母への深い敬意を感じます。
1987(昭和62)年3月、浩宮時代の陛下はブータンを訪問して当時の国王や皇太后、王女らから心のこもったもてなしを受けられました。最後の夜には皇太后の主催で「別れの宴」が開かれ、陛下は皇太后から贈られた民族衣装の「ゴ」を着て皇太后や王女の踊りの輪に加わり、別れを惜しまれました。
旅の終わりの記者会見で陛下は女性皇族の役割について話されています。「王女さま方の果たす役割には深いものがありました。私たち男性ではなかなかできないような、人をもてなす時の心温まる何かを日本の皇室でもやっていかなければならないと思いました。そういう意味で女性皇族はますます大切になっていくと思います」
陛下が愛子さまに寄せられる期待にはブータンの記憶もあるでしょう。有識者会議が結婚後も皇室にとどまる案を示し、立場が不透明な愛子さまですが、求められる役割は小さくありません。
愛子さまは成年を迎えて「一つ一つのお務めに真摯に向き合い、できる限り両陛下をお助けしていきたい」という思いを示されました。清子さんのように失敗や後悔があるかもしれません。その時、参考にされるのは叔母の歩みでしょうから、成年皇族のスタートには清子さんのティアラの輝きこそふさわしかったと愛子さまの笑顔に思いました。ご自分のやり方で、「令和」にふさわしい公務を切り拓いていっていただきたいと願います。
【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)
日本テレビ客員解説員。元読売新聞編集委員。皇室ジャーナリスト。1957年東京生まれ。読売新聞社会部の宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご成婚や皇后さまの適応障害、愛子さまの成長などを取材。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。