あの日を語る「凹んだ壁」 消えゆく震災遺構 「この姿があるうちは…」 【東日本大震災13年の“あれから”】
復興の歩みと共に、津波の脅威を感じられる場所が年々減ってきています。そんな中、いまも当時の姿をとどめ、津波の脅威を静かに物語る施設が仙台市内にあります。
高さ10.4メートルの津波の被害を受けた状態のまま、大きく凹んだ壁―――。施設を見学する人は、2022年度に490人だった来場者は、23年度は2.3倍(1123人)に増加しました。
仙台湾に面する仙台市宮城野区の「南蒲生浄化センター」。100万都市・仙台市の7割以上の下水が、この場所で処理されています。
敷地の一角にたたずむのが、今は使われていない第3ポンプ場です。海側にあるコンクリートの壁は、内側に大きくめり込んでいました。仙台湾を襲った大津波が、建物を直撃してできたと考えられています。
2011年3月11日、避難した職員が別の建物の屋上から撮影していました。10mを超える波が建物に打ちつけ、大きなしぶきが上がっていました。
菅野清司(取材時・63歳)さんは当時を知り、今も施設に残る唯一の職員です。
菅野清司さん
「みんな無言で海をじっと見ていたなか、“来た、来た、来た!”と波を見つけた人がいて、指さす方向を見ていたが、実際現実にそのことが起きているのか、何か映画のワンシーンでも見ているような状況で…。起きていることが理解できないというか、そういう感じだった」
波はどれほどの高さまで来たのか―――。
菅野さん
「窓の下の部分に津波の水面の高さの表示があるんですけれど、その高さまで来ました」
建物を内側から見ると、真っすぐだったコンクリートの柱は大きく湾曲していて、かろうじて壁面を支えていました。
菅野さん
「この部分は、内部が吹き抜けになっていて床がない。向こうは床があるからへこまなかったが、ここは吹き抜けで天井までの距離があったので強度が弱かったと思う。ものすごい水のエネルギーがぶつかったと思います」
震災後、県内には津波の脅威を物語る爪痕が各地に点在していました。宮城・女川町の、基礎ごと横倒しになったコンクリートの建物。海から800メートルの市街地に打ち上げられた漁船「共徳丸」。そして公民館の屋上に乗り上げた大型バス…。
しかし、いずれも住民感情への配慮や、街づくりの妨げになるなど、様々な理由からその姿を消していきました。
そして、当時の姿を今に留める第3ポンプ場。浄化センターの再建に支障がない場所にあったため取り壊されませんでした。
今後、この施設をどのようにしていくのか―――。
仙台市・郡市長(2022年10月)
「遺構として保存して見せていくという方向性は定まっておりません」
「かえって朽ちてゆくところも多いだろうとの認識を持っている。市が持っているほかの様々な震災遺構施設でも津波の恐ろしさは感じていただけると認識してます」
申し出があった場合のみ見学を受け入れ、2021年は30団体ほどが訪れましたが、仙台市として積極的な周知はしていません。下水処理の過程で有毒ガスが発生するという施設の特性もあって、震災遺構として広く公開するには課題が多いといいます。
菅野さん
「この状態で、どの時期まで保存されるかは分からないが、この姿があるうちは何かの役目をもってもらえれば」
時がたち、震災の記憶が薄れつつある中で、この貴重な施設を生かす手立てがないか。「第3ポンプ場」は、仙台の沿岸で津波の脅威を静かに語り続けています。
(※2022年10月31日にミヤギテレビの「ミヤギnews every.」で放送されたものを再編集しました)
【取材したミヤギテレビ・柳瀬洋平キャスター 2024年3月に思うこと】
別の取材で通りかかった場所に、この建物が建っていました。復興の進展とともに街並みが新しくなり、被害の様相を伺える場所が少なくなった中、当時をそのままに感じられる〝壁のめりこみ”に衝撃を受けたのを覚えています。
自然災害の恐ろしさを今に遺し、後世に伝える貴重な存在として、多くの人の目に触れることを願っています。