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目の前で津波に消えた夫 「生かされた者」の意味…店の再建誓う 【東日本大震災13年の“あれから”】

2024年3月9日 10:22
目の前で津波に消えた夫 「生かされた者」の意味…店の再建誓う 【東日本大震災13年の“あれから”】
宮城県気仙沼市で家族と100年以上続く酒店を営んでいた菅原文子さん。東日本大震災が発生した2011年3月11日。夫は差し出した手をすり抜け、目の前で津波に消えた。

震災から1年3か月にわたり行方不明になっていた夫は、店からわずか200mの市営アパートで見つかった。目の前で津波に消えた夫。あの日、自分の手に残ったぬくもりを確かめた。場所を転々としながら仮店舗で営業を続けてきた酒店は、2016年12月に本設の店舗で営業を始めた。知人の紹介で借りたこの場所は、夫の遺体が見つかった市営アパートの跡地だった。

夫を救うことはできなかったのか―――。そう思い悩むこともある。各地で災害が発生する中、菅原さんは語り部として震災の記憶を伝え続けている。

「残された者は生きなくちゃいけない。災害に遭ったら、どうやってみんなで辛い日々を乗り越えていくかとか、何かそういうことも私たちが体験した者として、次の世代に伝えなきゃいけないかなとも思う」

東日本大震災から13年。“生かされた者"としての意味を今、噛み締める。

■コロナ禍の経営 「あの時」のように先が見えず

宮城・気仙沼市の鹿折地区に店を構える「すがとよ酒店」は、創業100年を超える家族経営の“酒屋さん”です。

菅原文子さん
「コロナがなければ遠方からご縁のある方とか、たくさんの方が訪ねてくださってたんですけど」
「正直お店の存続を考えながら、何としてもお店を守らなければと思って」

老舗の酒店にとってもコロナ禍での経営は厳しく、あの時のように、先の見えない不安な日々を過ごしています。

■差し伸べた手をすり抜け…津波に消えた夫

11メートルを超える津波と大規模火災に見舞われた鹿折地区は、目を覆うような惨状が広がっていました。菅原文子さんは、この場所で夫とともに酒店を営んでいました。

菅原文子さん
「大きな波が来て…」
「すっぽり主人が波の中にのまれた瞬間はもちろん忘れられないけれども」

震災当時、商品を守ろうと店の1階にいた夫・豊和さん(当時62歳)。津波に気づいた文子さんが2階から差し伸べた手をすり抜けて、津波に消えました。家にいた義理の両親も犠牲になりました。かろうじて屋上に逃れた文子さんは、不安と寒さの中で一夜を過ごし、救助されました。

震災から1か月半後、菅原さんは土地を借り、長男・豊樹さん、二男・英樹さんと仮店舗で営業を再開しました。店先に並んだのは、豊和さんが津波から守った400本の酒です。息子達は、「店の看板とおふくろは俺達が守る」と誓ったといいます。

■震災1年3か月 夫が見つかった場所は…

震災の1年3か月後、行方不明だった夫の遺体が見つかりました。夫が見つかったのは、店からわずか200メートル。解体が始まったばかりの市営アパートでした。

菅原文子さん
「ようやく主人を迎える事ができて本当に安心しました」
「そうですか。お父さんここにいたんだ…」

夫は、生まれ育った街を見守るように眠っていました。

その頃、長男の豊樹さんはコンビニの経営に乗り出しました。一家の大黒柱として生活を支え、酒店の再建を後押しする道を選んだのです。店の看板は、二男の英樹さんと守っていくことになりました。

■鹿折での再出発 “運命的な場所”で

震災前、およそ7000人が暮らしていた気仙沼市・鹿折地区。2022年時点で、人口は3000人近く減り、町を出て生活を立て直した人も少なくありません。店があった場所には、避難道路が整備されることになり、夫の愛した店は姿を消しました。

鹿折地区の外を転々としながら仮店舗で営業を続けた文子さん。町の姿は変わっても、もう一度、夫と過ごした鹿折で店を再建したい―――。震災から5年が経った頃、“運命的な場所”でその願いは叶いました。

知人の紹介で借りた場所。そこは、夫の遺体が見つかった市営アパートの跡地だったのです。
 
菅原文子さん
「お父さんがここでやれっていうことなんだなと思ってね」
「何かすごくパワーをもらったというか」
「この鹿折の地でまた本当に“すがとよ酒店”の看板を掲げて新たな商いの道を歩みます」
「どうぞよろしくお願いします」

夢にまで見た鹿折での再出発。「街ににぎわいが戻る日まで店の看板を守る」と、亡き家族に誓いました。

■“相手があっての商売”なのに“相手がいない”

2022年2月、配達の準備をする二男の英樹さんは、「もうこれで(準備は)終わりです、あ~あ」とため息をつきました。新型コロナに見舞われて2年。感染状況に比例するように、取引のある飲食店からの注文は大幅に減りました。

菅原英樹さん
「やっぱり来店されるお客様がそもそもいないですから。相手があっての商売ですからね」
「相手がいない状況で、どうやって商売をするかっていうのは、今まで経験したことがないような大問題です」

この日訪れた店でも、午後4時閉店が続いており、アルコール提供も「ほとんどやっていない」といいます。震災後、大幅に減った店の売り上げは、新型コロナの影響でさらに減りました。訪ねる先でも、明るい話題が出ることはほとんどありません。ふるさとが活気を失っている今、地域を支える存在でありたい―――。

菅原英樹さん
「(震災が起きた)あの時、辛い思いした時に“頑張って前を向こう”という気持ちが今でも続いています」
「このコロナに負けず頑張っていきたいなと思ってます」

■「残されたみんなと手を携えて」

悲しみや喪失感と向き合い、わずかな希望を模索してきた震災からの日々。新たな苦難を前に“店を守る覚悟”も揺らいでしまいそうです。

菅原文子さん
「生きるという事は、そういう辛いことの繰り返しでもあるのかなと思いつつね」
「この街でみんなとね、残されたみんなと手を携えてね。生きていかねばなと思って」
 
この街と自分たちの未来予想図は描けないまま、それでも、前を向きます。

(※2022年3月8日にミヤギテレビの「ミヤギnews every.」で放送されたものを再編集しました)

【取材したミヤギテレビ・佐々木博正ディレクター 2024年3月に思うこと】

最愛の夫と家族、そして大切な酒店を失った菅原文子さんは息子たちや地域の人と支え合いながら震災後の日々を歩んできました。

あれから13年、悲しみや痛みは増すことはあっても消えることはないといいます。震災の記憶を伝え続けることが教訓の伝承にもつながればと感じます。

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