家族になったボクとおばちゃん 歳月の記録…13年「恩返しがしたい」 【東日本大震災13年の“あれから”】
7歳でひとりぼっちになった佳祐さんは伯母の日野玲子さんに引き取られ、一緒に暮らし始める。子育ての経験がなかった玲子さんは、手探りで佳祐さんを我が子のように育てていく。玲子さんは、未経験ながら佳祐さんの家族が営んでいた自動車整備工場の経営も引き継いだ。当初は互いに遠慮がちだったふたりの暮らし。しかし、共に泣き、共に笑う日々を重ねていくうちに、親子のように絆を強めていく。
2024年、大震災から13年が経とうとしている。佳祐さんは今、将来の夢に向かって歩み続けている。親のように愛情を注ぎ育ててくれたおばちゃんに「恩返しがしたい」。
震災によって大きく変えられたふたりの人生。でも、ボクもおばちゃんも“ひとりじゃない”―――。心のぬくもりを確かめ合いながら、“家族”に近づいていく歳月を見つめた。
当時小学1年生だった辺見佳祐くん(当時7歳)はあの日、学校にいました。駆けつけた父・正紀さんは、学校で待つよう告げ自宅へ。家族全員を車に乗せ、自宅から学校に向かう途中で津波にのまれました。
「パパは? ママは? どこにいるの?」
そう泣き通していた佳祐くんを、仙台に住んでいた伯母の日野玲子さんは捜し当て、抱きしめました。震災から1週間後、玲子さんは小さな背中に告げました。
玲子さん
「『今回すごい津波だったでしょう』っていう感じで、『それにね、巻き込まれたんだよ』と。『死んじゃったんだよ』って言った」
玲子さんの言葉に、佳祐くんは「わかったよ」「じゃあいいよ、もうその話」と告げると、それから泣かなくなったという。2人は佳祐くんの自宅で一緒に暮らし始めました。
玲子さんには、子育ての経験がありません。主婦として家庭を支えてきましたが、震災の前年に離婚していました。ひとりで仕事をして生活していくことの難しさを感じた矢先での事態―――。佳祐くんの両親が営んでいた自動車整備工場は、玲子さんが引き継ぎました。
玲子さん
「最初は悲しかったですけど、やっぱりここ(工場)を再開してとか、佳祐を育てていかないといけないっていう1つの目標ですか」
一緒に暮らすようになって、悲しみの深さに気づかされることもありました。
玲子さん
「パパ、ママと泣きながら言ったりとか、『お姉ちゃん、寂しいよ』っていうのを全然言ったことない」
「逆にすごい元気になって。先生に『ウチではそうなんです』って言ったら『学校では“泣き虫 佳ちゃん“で通ってます』とかって言われて、びっくりしたんです」
震災から2年経った2013年3月には、2人の関係も少しずつ変わり始めていました。
当時、小学校3年生の佳祐くんが話してくれたのは、震災前に寝ていた2段ベッド。「(姉の)佳奈ちゃんが下でボクがここ(上)。いつも時計置いて『おはよう』って言って…」。
思い出に触れると、幼いころからの癖が無意識に出ることもありました。
5年生になった佳祐くんは、自宅で勉強していると、声をかけてきた玲子さんに「ねぇ! だからさあ!」「もう! いちいちうるさいな!」とふてくされた様子。ただ、玲子さんは、「2人でいる時は絶対言わないよ。そんなこと言ったらとんでもないことになるもんね、佳ちゃん」と笑顔で話しかけていました。
震災から4年がたち、身長も20センチ伸び、149センチに。
玲子さん
「おばちゃんが大体151.5か2ぐらい。だんだん(差が)縮まってきているような気がする」
一緒に暮らすようになって、柱には身長を刻んできました。その柱と共に、自宅が壊されることに。堤防が拡張されるため、家族と過ごしてきた自宅は立ち退かなければならなくなりました。
震災から5年。内陸に造成された街に玲子さんが家を建てました。これからはこの場所で、新しい思い出を積み上げていきます。
佳祐くんの12歳の誕生日。赤いリボンのプレゼントを手渡せれ、「オレ女の子じゃないぞ、この赤い(リボン)」といった次の瞬間、「どうしよう、カセット(ゲーム)だ」と笑みがこぼれます。中身は、新しいゲームでした。
取材スタッフの「もらったらなんて言うの?」という言葉に―――。
佳祐くん「ありがとうございました」
玲子さん「いいえ、どういたしまして。12歳の誕生日おめでとうございます」
玲子さんは「よく周りの人から言われるのね、もうお母さんって呼んでるのとか何とかって。そういう話よくされるんだけど、やっぱりずっと『おばちゃん、おばちゃん』で来たので今でもそういう感じ」と話します。
玲子さん
「佳祐も『ひとりじゃない』っていう風に言うけど、私もひとりじゃないみたいに感じますね。本当に」
◇
一方で佳祐くんも「一緒に暮らして笑ったり、泣いたりとかまあ昔と比べりゃ今の方がいいなと思う」と話してくれました。
「逆に大変なこととか自分の中であったりした?」というスタッフの問いには、「そういうのはまあ…」「人生そんなもんだから…」
2016年3月、佳祐くんは小学校で門出の日を迎えました。手渡された卒業証書。ひとりで生きていこうとしていた玲子さん。ひとりぼっちになった佳祐くん。あの震災で2人の人生が重なりました。
それから4か月後。佳祐くんが中学1年生になった夏に、家の解体が始まりました。
佳祐くん(当時12歳)
「おばちゃん、今さ解体してる家。その中に柱、あれってさ持って帰れんの?」
玲子さん
「柱? 言えば持って帰れるよ」
亡くなった4人に見せられなかった成長の軌跡が、その柱には刻まれていました。
いつも可愛がってくれたおばあちゃん。働く姿が格好良かったお父さん。優しい笑顔で包んでくれたお母さん。ケンカもしたけどよく面倒を見てくれたお姉ちゃん。
そして、柱はおばちゃんとの暮らしも見てきました。
2020年、佳祐くんは高校では演劇部に入部。将来のことも考えるようになっていました。
佳祐くん(当時16歳)
「継ぎたいっちゃ継ぎたいね。何かやっぱ家族が残してくれたのが、それしかなかったから。唯一それしかないから。何もない、家もなくなっちゃったし」
◇
2021年1月、家族を亡くし、おばちゃんと暮らしはじめてから、まもなく10年が過ぎようとしていました。
佳祐くん
「おばちゃんとは最初の頃とかはあんまり知らない、お互いあんまり分からなかったから」
「よく喋らなかったけど、今はもうお互いのことよくわかってるし、いつも(そばに)いてくれることが楽しかったなと思う」
「両親亡くなって代わりにおばちゃんが一生懸命育ててくれたから、楽しかったっていうか普通にありがたかったかなって思ってる。家族かなって思ってる」
おいっ子とおばちゃん―――。2人は確かな家族になりました。
高校の卒業式で佳祐くんは、「12年か11年くらい、本当にありがとうございました」と頭を下げた。玲子さんは「まだまだ先長いので、これからもよろしくお願いします。頑張ってください」と声をかけた。
佳祐くんは、仙台の専門学校に進学しました。18歳での人生の選択は、自動車整備を学ぶ専門学校で、実践的な経験を積むことでした。
佳祐くん
「俺の番か。まあそうだよな。ずっと(工場を)おばちゃんも守ってきてくれたんだもんな」
◇
2022年8月、佳祐くんには初めてのバイト代で買いたい物がありました。「プレゼント買います」と店に向かう佳祐くん。「どなたへ?」と尋ねると「親に。親へ」と―――。玲子さんの名前が入ったボールペンでした。
東日本大震災から12年となる2023年、玲子さんは「ずっと一緒にいられるかどうか分かりませんけども、私にとってはすごく良かったと思います」
ボクとおばちゃんの12年。新しい家族のカタチを作ってきました。
佳祐くん
「ひとりぼっちじゃないんだなっていうことを、改めて分からせてくれたし、だんだんと」
「育ててきてくれたしね。就職したら恩返ししなきゃね、いっぱいね」
(※2023年4月23日に「NNNドキュメント」で放送されたものを再編集しました)
【取材したミヤギテレビ・佐々木博正ディレクター 2024年3月に思うこと】
東日本大震災という未曽有の災害がもたらした計り知れない悲しみの中で、支え合いながら懸命に前を向いて生きる姿を取材を通して見つめてきました。寄り添う日々を重ねた2人が信頼し合える「家族」になっていく姿が、多くの方に伝わればと思います。