津波を乗り越え…命つないだ“ひまわり”
諏訪中央病院・鎌田實名誉院長は先月、東日本大震災の津波で大きな被害を受けた宮城県気仙沼市を訪れた。
■命つないだ“ひまわり”
気仙沼港から約7キロの場所にある大島は当時、気仙沼港とをつなぐフェリーが陸に打ち上げられてしまい、住民は島に帰ることも島から出ることもできなくなっていた。気仙沼港は津波によってほとんどの船が被害を受け、当時約3200人が暮らしていた大島への交通手段がなくなった形だ。
震災から19日後に定期船が復活するまでの間、救援物資や医師などをのせ、大島の住民の命をつなぎとめていたのは、小さな連絡船「ひまわり」だった。震災1か月後に現地を訪れた鎌田さんも、大島へ渡った時に利用していた。
「ひまわり」の船長・菅原進さん(75)は地震発生直後、すぐに港から船を出し、津波を乗り越え、船を守った。「この船がなくなったら、島が孤立してしまう」―その一心だったという。
しかし、大島にあった菅原さんの家は津波にのまれてしまった。菅原さんは自らも被災しながら、ボランティアで船の運航を続けた。「住民のために」と一生懸命だった菅原さんに感銘を受けた鎌田さんは「またいつか会いに来るから」と約束をして別れた。
■6年後の再会
それから約6年。約束を果たすため気仙沼港へ向かい、菅原さんとの再会を果たした。
翌日、鎌田さんは大島へ渡った。まず菅原さんが案内してくれたのは元々、家のあった場所。海は目と鼻の先だった。
菅原さんは去年、全壊した家を再建した。場所は元の家から車で5分ほどの場所にある高台。ただ、その材料には元の家の木材やくぎを使い、元の家と形も間取りもほとんど同じで、5年がかりで仲間と再建した。
自ら家を建て直したのにはワケがある。「解体や再建を業者に頼めば、まだ使える、愛着のある木材が捨てられてしまう上、島の復興も遅れてしまう」という思いからだった。
ただ、「震災前の家と同じ家に住むことで忘れたいことも思い出してしまうのでは」と質問すると、菅原さんは「俺は忘れることはないね。忘れられないね。忘れようっていったって、忘れられないね」「震災を経験した人間は、その経験を記憶にとどめて伝えていかなくてはいけない」と話していた。
■復興度は100%
鎌田さんは、被災した人に会う度、「いま、あなたの復興度は何%ですか?」と聞いている。多くの人は「60%」「80%」と答えるが、菅原さんは「100%」と答えてくれた。
菅原さんは、この6年、全力で生きてきた。だからこそ言える言葉だと感じた。ただ、「町も島もまだまだ復興はこれからで、そのことを忘れないでほしい」と語ってくれた。