米軍機、小学校に墜落から59年 沖縄の今
米軍機による事故やトラブルが相次いで起きている沖縄県。59年前の30日、米軍機が小学校に墜落し18人の命が奪われた。あの日から変わらない現実。沖縄の今を見つめた。
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30日午前、沖縄県うるま市の宮森小学校は静かな祈りに包まれていた。1959年6月30日午前10時40分―。エンジン爆発を起こした米軍機が市街地に墜落し、そのまま、宮森小学校に激突した。一瞬にしてあたりは火の海と化した。
当時小学2年生だった稲福晃さんには、今も忘れられない光景がある。
稲福晃さん「中庭に逃げる時にこの辺をみたら、黒こげになって寝かされてる子や、教頭が白いワイシャツを血だらけにして介抱してた」
小学校の中にある慰霊碑「仲よし地蔵」。当時5年生だった久高政治さんは、姪の徳子さんを事故で亡くした。
久高政治さん「きょうだいの中でも、とても活発、元気な子だったと聞いています」
稲福さんの同級生、新垣晃さんは事故で大やけどを負った。
稲福晃さん「みたらこのへん全部ケロイド、皮膚呼吸できなくて腎臓を悪くして亡くなった」
高校時代は陸上で沖縄一に輝いた新垣さん。やけどの後遺症があり、22歳で亡くなった。
児童12人を含む18人が死亡、210人が重軽傷を負った事故。久高さんは現在、事故を後世に伝えるための活動を行っている。2016年、アメリカの公文書館から新たな資料を入手。治療の経過などが記された貴重な資料の数々。来年の出版を目指し翻訳をすすめている。
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あの日、基地を飛び立った米軍機。離陸後、エンジン付近での出火を受け、着陸を試みるも失敗。
その後エンジンが爆発し、パイロットが脱出。制御不能に陥り市街地に墜落した。事故後の調査で墜落の原因は整備不良などの人為的ミスだったことが分かった。
あれから59年―。沖縄では今も米軍機による事故やトラブルが相次いでいる。
久高政治さん「沖縄の空は当時も今も全く変わらないので、同じようなことが起きないように願ってますが。しかし、この可能性は日々大きくなってるような気がしています」