皇室と国際親善 63年前、機内の「宣言」
長い歴史の中で飛行機に初めて乗った天皇は昭和天皇でした。この動画は1954年(昭和29)8月23日、昭和天皇が香淳皇后と共に、北海道からの帰路、初めて飛行機に乗り、羽田空港に降り立った時のものです。4回にわたり皇室と飛行機、そして外国訪問の意外な関係を振り返ります。(日本テレビ客員解説委員:井上茂男)
【コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」
第1回「空の旅とオーロラと国際親善」(1/4)
■北極回りの一番機に搭乗された三笠宮ご夫妻
地球のてっぺん、北極の上空で2機のプロペラ機(ダグラスDC-7C型機)がすれ違いました。
今から63年前の1957(昭和32)年2月25日午前6時30分過ぎ(日本時間)。日本の東京と、デンマークのコペンハーゲンから飛び立ち、北極圏を抜けて1万3千キロ離れたそれぞれの都市を目指していました。運航していたのは、デンマーク、スウェーデン、ノルウェーの北欧3か国が運営するスカンジナビア航空(SAS)。新たに開設された北極ルートの、「地球特急号」と名付けられた一番機でした。
東西冷戦のさなか。旧ソビエト連邦の上空を外国の飛行機が飛ぶことは許されず、東京―コペンハーゲン間はインドなどを経由する「南回り」で56時間かかっていました。そこに登場したのが、アメリカのアンカレジを経由して北極圏を抜け、半分近い所要時間の32時間で結ぶ新ルートでした。日本は単なる終点ではなく、アジアの入り口としての役割も期待されていました。
北極と南極の両極を、赤道と直角に交わるように結んだ円を「子午線」と言います。船舶や飛行機の位置を把握するのに使われる基準ですが、極地近くでは間隔が次第に狭くなり、位置を正確に割り出すのが難問でした。SASは特別な地図や新しい測定機器を考案して難問を克服、不時着した時の防寒対策など万全を期して、新ルートを開設したのです。
■北極上空で東西のプリンスがすれ違う
北極を通過する瞬間、東京行きに搭乗していたデンマークのハンセン首相が機内から「北極宣言」を世界に向けて発信しました。「新空路開設の成功は北欧三国の協力によるものだが、この協力こそいまの世界にいちばん必要だ」。乗客たちはシャンパンで乾杯して祝いました。コペンハーゲン行きに乗り込んだ読売新聞の外報部長は、その時の様子を「突然スピーカーがガーガー鳴り出した。ついにきたのだ」「『北極宣言』が送られてきた。まさに民間航空史上歴史的瞬間である」と、「地球特急号同乗記」に興奮を綴っています。
コペンハーゲン行きには、北欧3か国の政府から招待を受けた三笠宮ご夫妻が、東京行きには、デンマーク王室のアクセル王子と、ハンセン首相ら3か国の首相や外相が乗っていました。
アクセル王子は、現在のマルグレーテ2世女王から数えて4代前のクリスチャン9世国王の孫です。昭和天皇は来日したアクセル王子や3か国の閣僚のために、昼食会を開いてもてなしました。
『昭和天皇実録』によると、アクセル王子は、1930(昭和5)年3月、皇太子時代のフレデリック9世国王らと来日し、鎌倉や日光、京都を訪ねています。戦後、日本が独立国として主権を回復した1952(昭和27)年にも戦後初の外国賓客として来日し、昭和天皇は羽田空港に宮内庁の式部官を遣わし、昼食会を開いてもてなしました。3回目の来日が「地球特急号」の旅で、翌1958(昭和33)年には東京で開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会のために来日しています。
毎日新聞(1957年2月22日)によれば、アクセル王子は68歳。その役職は、スカンジナビア航空の重役で6人いる経営委員会の理事、世界的な貿易会社「イースト・アジアチック」の会長、さらにはIOCのデンマーク代表も務める重鎮でした。民間航空事業への功績は大きく、自ら操縦桿を握り、腕前はデンマークで10指に数えられるほど。高松宮さまをはじめ、日本に多くの知己を持ち、日本に非常に好感を持っている人物でした。
■「時代の進歩を思って感慨無量だ」と三笠宮さま
一番機に乗り込んだ三笠宮ご夫妻は、3月9日未明、北欧3か国や西ドイツなどを回ってインド経由で帰国されました。羽田空港に降り立ち、三笠宮さまは、「非常に愉快で少しも疲れをおぼえなかった。北極の真上をとんだときは暗くてよく見えなかったが、オーロラは美しかった。時代の進歩を思って感慨無量だ」と語っています。行きは北極回り、帰りは南回りでしたから、その違いを実感したのでしょう。
世界のエアラインは北極ルートを採用していきます。翌年の1958(昭和33)年には、エール・フランスが羽田―パリ便を北極回りで結びました。その一番機に乗ったのは、高松宮夫妻。パリの「日本古美術展」とベルギーの「万国博覧会」のための訪欧でした。航空会社は違いましたが、兄弟で北極回りの一番機に乗ったのです。
SASは北極ルートの開設から3年後の1960(昭和35)年、ジェット機のダグラスDCー8C型機を就航させ、所要時間を半分近くの16時間に縮めます。やがてシベリアの上空を飛ぶルートが開放され、今に至ります。羽田―コペンハーゲン間は今や11時間半でひとっ飛びです。
開設から25周年を迎えた1982(昭和57)年2月、東京で祝賀会が盛大に開かれました。三笠宮さまも招かれ、「北極の真上で記念の乾杯で飲んだシャンパンの味は今でも忘れられない」と思い出を語っています。
海外旅行など夢のまた夢だった時代の逸話ですが、北極ルートの一番機に東西のプリンスが乗り込み、北極上空ですれ違った歴史の一コマが忘れられているのは、ちょっと残念な気がします。(続)