上皇さまと空の旅 乗務員と56年ぶり再会
長い歴史の中で飛行機に初めて乗った天皇は昭和天皇でした。1954(昭和29)年8月23日。「全国巡幸」で訪ねた北海道の帰路、昭和天皇が香淳皇后と共に、初めて飛行機に乗り、羽田空港に降り立ちました。その1年前、実は当時皇太子だった上皇さまが、一足先に初めて飛行機に搭乗されています。動画は67年前の貴重な映像です。(日本テレビ客員解説委員 井上茂男)
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【コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」
第1回「空の旅とオーロラと国際親善」(3/4)
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■上皇さまはカナダで初めて飛行機に
昭和天皇が飛行機に乗った前年の1953(昭和28)年。19歳の若き皇太子だった上皇さまは、英国のエリザベス女王の戴冠式出席のために訪欧されました。天皇の代理という重い立場での旅でした。
3月30日。横浜からアメリカの客船「ウィルソン号」で出発。ハワイを経由して4月11日にサンフランシスコに到着されました。そこにカナダ空軍の貴賓用特別機(ダグラスD-5型機)が迎えに来て、カナダのヴィクトリアに向かわれます。上皇さまの初めての飛行機搭乗だったようで、当時の朝日新聞は「皇太子さまも生まれて初めての空の旅に愉快気なご様子だった」と伝えています。
飛行時間は3時間40分。「コンパートメントは折りたたみ式のテーブルが用意され、豪華旅客機以上」と朝日新聞にあります。しかし、飛行機は何度か雲に入って揺れ、随行した宮内庁の吉川重国・式部官の『戴冠紀行』(毎日新聞社)には、「あまりよくないね。船のほうがいいよ」という上皇さまの言葉が記されています。
■56年ぶりの再会に「覚えています」
56年後の2009(平成21)年7月、上皇ご夫妻はカナダを公式訪問されました。
この時、首都オタワで懇談した日系人の中に思いがけない人がいました。カナダ空軍の特別機で「キャビンアテンダント」を務めた日系2世のグレース・トミコ・フルヤさん(当時78歳)です。上皇さまは「あの時、飛行機に乗っていらしたんですね」「覚えています。どうしているかと思っていましたが、お会いできてうれしいです」と声をかけられました。
ヴィクトリアの空港では、カナダ空軍機の機長だったデーブ・アダムソンさんが搭乗機のタラップ下で待ち受け、上皇さまは「あなたのことはよく覚えています」と握手を交わされました。
多感な青春期の思い出は輝きを失わないのでしょう。「あの時は……」。この旅に取材で同行し、上皇さまが上皇后さまに思い出話をされるのをたびたび耳にしました。
1953(昭和28)年の旅は、バンクーバーからオタワを経由してニューヨークまで鉄道で移動し、ニューヨークから英国までは再び船(クィーン・エリザベス号)に乗られました。帰りはロンドン―ニューヨーク、サンフランシスコ―ホノルル、ホノルル―羽田と飛行機。翌年の昭和天皇の飛行機搭乗と合わせ、皇室の旅は飛行機の時代に入っていきました。
■進級できず聴講生、結核にも
当時、上皇さまは学習院大学政経学部の2年生でした。帰国して学習院大学に復学しますが、半年休んだために進級試験を受ける資格が得られず、翌春からは聴講生となって学生生活を終えられています。
宮内庁のホームページは上皇さまの略歴を「学習院大学教育ご修了」としていますが、ホームページ以前の『宮内庁要覧』には「ご終了」とありました。側近たちの気遣いが感じられます。
縮刷版で当時の新聞記事をたどると、上皇さまは訪欧中にしばしば風邪をひいて休まれ、帰国から3か月後には「泉熱」と診断されていました。「泉熱」は猩紅熱(しょうこうねつ)に似た感染症で、「泉」は報告者の名前です。
2009(平成21)年3月、上皇さまが結核予防全国大会で述べられた「おことば」の中に、「私自身、かつてストレプトマイシンやヒドラジッドなどの新薬の恩恵に浴したものの一人です」という一節がありました。
その新薬は結核の治療薬です。宮内庁は報道陣に事実関係を明らかにし、「昭和28年12月、20歳のお誕生日の直前に、結核の診断がなされ、以後、ストレプトマイシンやヒドラジッドなどの投薬が続けられ、昭和32年9月に至り、ほとんど御治癒との判断がなされました」と説明しました。
上皇后さまと軽井沢で出会われたのは1957(昭和32)年8月。その頃まで病気と闘われていたのです。ヨーロッパ訪問は上皇さまを大きく成長させ、各国の王室メンバーとの交流を深める機会になりましたが、その陰に代償もありました。 (続)