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皇室の養蚕と渋沢栄一(上) 富国強兵の風

2021年3月4日 10:42
皇室の養蚕と渋沢栄一(上) 富国強兵の風

小さな蚕(かいこ)が吐き出す細い糸が、この国を支えた時代がありました。富国強兵を目指して殖産興業が急がれた明治の頃です。時代の風を受けて明治天皇の皇后(昭憲<しょうけん>皇太后)が養蚕を試みます。1871(明治4)年。今からちょうど150年前のことです。「日本資本主義の父」として一万円札の顔になる渋沢栄一がその始まりに関わっていました。いま注目される渋沢と皇室の養蚕の歴史をたどります。(日本テレビ客員解説委員井上茂男)

【コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」第5回「皇室の養蚕と渋沢栄一(上)~『富国強兵』の風を受けて皇室の養蚕は始まった」

■ヨーロッパに聞こえた蚕種の産地「シマムラ」

群馬県伊勢崎市。関東平野を貫く利根川のほとりに、島村という地域があります。明治初期、ヨーロッパに聞こえた蚕種(さんしゅ=蚕の卵)の産地「シマムラ」です。「富岡製糸場と絹産業遺産群」として世界遺産に登録された田島弥平旧宅を、登録の前の2011(平成23)年に取材で訪ねたことがありました。

田島家は、風通しのよい中で蚕を育てる「清涼育(せいりょういく)」を広め、屋根の上にもう一つ換気用の屋根を載せた近代養蚕農家建築の原型として知られます。当主の田島健一さん(2014年死去)に話をうかがい、4代前になる高祖父の弥平がイタリアで求めた顕微鏡や、養蚕の手引き書を刷った版木など、貴重な品々を見せてもらいました。

■標本として残されていた皇居の繭

その中に繭の標本がありました。「宮城(きゅうじょう)内紅葉山(もみじやま)御養蚕所御生産繭」「大正十二年御手ヅカラ御収繭(しゅうけん)……」。日に焼けて木の台はすっかり黒ずんでいましたが、ガラスの覆いに収められた繭は真っ白で、右から左に書かれた毛筆の文字が読めました。

「宮城」は戦前の皇居の名称です。1923(大正12)年、大正天皇の皇后(貞明<ていめい>皇后)が収穫した繭の標本でした。「父たちがお手伝いした時にいただいた繭です」。健一さんはそう言って、見やすいように立てかけてくれました。庭には1948(昭和23)年に皇太后の貞明皇后が田島家を訪ねた記念碑もあり、田島家と皇室とのつながりが感じられました。

■蚕の伝染病で日本に熱い視線

徳川幕府が結んだ神奈川条約に基づき、1859(安政6)年、横浜(神奈川)など3港で外国との貿易が始まります。主要な輸出品は生糸、茶、蚕種。8割までが生糸でした。

ヨーロッパの養蚕はその頃、「微粒子病」と呼ばれる蚕の伝染病が蔓延し、長く壊滅状態にありました。フランスの細菌学者、ルイ・パスツールが予防法を確立するまで続きます。清(中国)も第2次アヘン戦争などで疲弊し、日本のシルクがイギリスやイタリアから注目されたのです。

ちなみに、養蚕は一般的にカイコガの幼虫に桑の葉を与えて育て、4度の脱皮を経て作る繭から生糸を取ります。蚕の数え方は「匹」ではなく「頭(とう)」。家畜の牛や馬と同様、家蚕(かさん=昆虫の家畜)なので「頭」で数えるそうです。蚕種は、菜の花の種(菜種<なたね>)に似ているのでそう呼ばれます。

■「座繰り」から「器械製糸」へ
当時の糸作りは人の手が頼りの座繰(ざぐ)り」でした。鍋で湯を沸かし、繭を煮て、糸の口を探し、糸車を回して1本の糸を巻き取ります。品質にばらつきがあるのが難でした。それでも外国に高く売れることから粗悪品やにせものが横行し、世界から日本に厳しい目が向けられます。

良質な生糸を大量に作るために動力を使った「器械製糸」への転換が図られ、1870(明治3)年、新政府は官営の模範工場として製糸場を作ることを決めます。世界遺産に登録された群馬県の富岡製糸場です。指導者として招かれたのはお雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリュナ。設置主任として力を尽くしたのが政府に任官して間もない30歳の頃の渋沢栄一でした。2年後に完成して初代場長となったのは尾高惇忠(おだかあつただ)。渋沢の妻の兄で、渋沢に論語を教えた人でした。

■渋沢が親戚の田島武平を紹介

富岡製糸場の槌(つち)音に背中を押されるように、1871(明治4)年3月、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)が養蚕を始めます。天皇の活動を記した「明治天皇紀」によると、皇后は皇居内の吹上御苑で養蚕を思い立ち、養蚕に習熟した女性と世話人を選ぶよう命じ、選ばれた女性たちと一緒に桑を摘んで蚕を育てました。

この時、皇后に世話人を推薦したのが渋沢栄一でした。親戚の田島武平を推したのです。後に旧宅が世界遺産になった田島家の弥平にとって武平は本家筋。弥平の妻も吹上御苑での養蚕を手伝いました。

渋沢が後に著した『出がら繭の記』には、大蔵省に出仕していた時に皇太后の求めを伝え聞き、自分は動けないので縁者の田島武平(ぶへい)に頼んだこと、寝食も忘れて勤めた武平の働きに「かしこき御あたりにおかせられても御満足に思召さるゝよし」と聞いて喜んだことなどが記されています。渋沢によれば、皇后は熱心に見学し、天皇は8度も見に来たそうですから、関心の高さがわかります。

「出がら繭」は羽化した成虫が破った繭です。一本の長い糸は取れませんから、引きのばして真綿(まわた)にします。ちなみに、繭から取った糸は生糸、さらにゆでて柔らかくしたのが絹糸(きぬいと)で、普通、シルクの服地はその絹糸から織られます。

■「シルクロード」の先にあったイタリア

利根川のほとりにある島村の対岸は埼玉県の深谷市です。渋沢の生家がある血洗島(ちあらいじま)はその深谷にあります。今では川の流れが変わっているそうですが、武平や弥平の家がある島村と渋沢の実家は3キロほどの隣村。渋沢の家は蚕と藍(あい)を育てる農家で、養蚕に通じていました。

翌1872(明治5)年、武平や弥平たちは会社を設立してイタリアへの直接販売に乗り出します。蚕種の規格を統一し、市場を開拓するためです。

力を貸したのはフランスを旅行し、西洋の事情や経済に明るかった渋沢でした。田島家で見せてもらった顕微鏡は弥平がイタリアから持ち帰った品でした。貿易港の横浜と生糸が集まり「桑都(そうと)」と呼ばれた八王子をつなぐ道は「日本のシルクロード」といわれますが、明治初期、その両端に群馬の島村と遙かイタリアがあった時期がありました。(続)


【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)日本テレビ客員解説委員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。

(冒頭の動画は養蚕に取り組まれる皇后さま<去年5月29日 皇居・紅葉山御養蚕所>)