皇室の養蚕と渋沢栄一(下) 絶滅の危機に
蚕(かいこ)が吐き出す細い糸が日本を支えた時代がありました。富国強兵が急がれた明治の頃です。それから1世紀半。日本の蚕づくりは農家数も生産量も激減し、「皇室を最後の養蚕農家にしてはいけない」という悲鳴も聞こえてきます。そんな状況の中で、渋沢栄一が関わった皇室の養蚕が歴代の皇后たちに受け継がれて続いています。(日本テレビ客員解説委員 井上茂男)
【コラム】「皇室 その時そこにエピソードが」第5回「皇室の養蚕と渋沢栄一(下)~『皇室を最後の養蚕農家にしてはいけない』という悲鳴」
■皇后と英照皇太后 6日かかった富岡への旅
1873(明治6)年5月5日、皇居は失火で宮殿などが炎上し、養蚕は中止となります。明治天皇の皇后(昭憲<しょうけん>皇太后)はそれでも動きます。
同年6月、皇后は、明治天皇の父・孝明天皇の皇后だった英照(えいしょう)皇太后と共に群馬の富岡製糸場を訪ねます。「明治天皇紀」によると、6月24日、二人は場長の尾高惇忠(おだか・あつただ)とフランス人技師ポール・ブリュナの案内で製糸作業や機械室などを見て回りました。
鉄道もない時代。19日に皇居を出発し、埼玉の熊谷を経て富岡を目指しましたが、連日の雨で川が氾濫して足止めを食い、視察できたのは6日目でした。天皇は心配し、侍従を遣わして安否を確認させています。
視察を終えて皇后は歌を詠んでいます。
「いと車とくもめくりて大御代の富をたすくる道ひらけつゝ」
「富をたすくる」という表現に時代の気分がよく表れているように思われます。
■支給された紺がすりと赤縞の袴で臨んだ工女たち
製糸場には約300人の工女たちが働いていました。和田英という工女が書き残した「富岡日記」によると、視察に向けて工女たちには紺がすりと赤縞(しま)の袴(はかま)が支給され、それぞれきれいな襷(たすき)と手ぬぐいで臨みました。襷はかすりの袖をたくし上げるひもです。
皇后たちが繰糸場に入ってくると、止まっていた繰糸機が動き、膝に手を置いて下を向いていた工女たちはさっと襷をかけて作業を始めました。糸を切らないように気をつけたそうです。
前日、下見に訪れた女官の真っ白なおしろいをおかしがり、明日笑ったら罪を申しつけると叱られていた工女たちですが、「ここで見ないと生涯見ることはできない」と、顔を上げないように興味津々と様子をうかがい、皇后たちの珍しい衣服や靴、髪型などをよく見ていました。
それから6年後の1879(明治12)年、英照皇太后は住まいの青山御所に養蚕所を建て、田島弥平が呼ばれて再び養蚕が始まります。皇太后が亡くなって中断してしまいますが、皇太子妃だった大正天皇の皇后、貞明皇后が復活させました。
■貞明皇后の思い「蚕を持てない人は絹を着る資格がない」
皇居で養蚕が復活するのは1914(大正3)年のことです。皇居炎上から41年後。貞明皇后が皇后になって皇居に移ってからです。築107年。今も使われている紅葉山御養蚕所はこの時に新築されました。
「母宮貞明皇后とその時代―三笠宮両殿下が語る思い出―」(工藤美代子著、中央公論新社)には、蚕に対する貞明皇后の思いがうかがえるエピソードが紹介されています。貞明皇后は三笠宮さまの母。三笠宮妃の百合子さまは義母の貞明皇后から「これ持てる」と蚕を見せられ、そっとつまんでみせると、皇后は「それなら絹を着てよろしい」「お蚕さんを持てない人は絹を着る資格がないとお笑いになった」と。
■見直された日本純粋種「小石丸」
皇居で作られる繭は、落花生のように真ん中がくぼんだ日本純粋種の「小石丸(こいしまる)」が中心です。1905(明治38)年、皇太子妃だった貞明皇后が養蚕施設を訪ねた折に気に入り、自分でも飼い始めました。
平成になって正倉院御物の絹織物の模造復元が進められた時に、小石丸の糸の細さが古代の糸の細さに近いことがわかり、上皇后さまが増産に努められたこともありました。大正から昭和にかけて盛んに飼育された品種ですが、俵型をした外来種の繭に比べ、くびれの分だけ糸の量が少なく、経済性を求める中で廃れていきました。皇居でも中止の話が持ち上がり、上皇后さまの「糸が繊細で美しいからもうしばらく」という言葉で残されました。
「この年も蚕飼(こがひ)する日の近づきて桑おほし立つ五月晴れのもと」
上皇后さまの思いも歌から伝わってきます。
■日本の養蚕農家はわずか264戸
いま日本の養蚕は絶滅の危機にあります。農林水産省の統計によると、ピークの頃の1930(昭和5)年の養蚕農家数は220万戸、繭の生産量は約40万トンありましたが、2019(令和元)年の養蚕農家数は264戸と約8300分の1、繭の生産量は92トンと約4300分の1にまで落ち込んでいます。
「皇室を最後の養蚕農家にしてはいけない」。関係者から聞こえる悲鳴は決して大袈裟ではないのです。
■続いてほしい皇室の養蚕
そうした状況の中で、皇居では歴代の皇后の手で養蚕が続けられています。去年、コロナ禍の中で初めて養蚕に取り組んだ皇后雅子さまは、品種を「小石丸」に限って伝統の作業に臨まれました。長女の愛子さまも小学3年生の時から蚕を飼われています。病気に備えて蚕を2つのグループに分けられているそうですから入念です。
皇室でとれる生糸は外国賓客にも贈られ、友好親善に役立っています。渋沢栄一や田島武平、弥平、そして多くの手伝いの人たちが支え、明治から150年にわたって続いてきた皇室の養蚕です。長く長く続くことを願います。(終)
【略歴】井上茂男(いのうえ・しげお)日本テレビ客員解説委員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)。
(冒頭の動画は富岡製糸場を視察された上皇ご夫妻<2011年8月)