【対馬丸事件から80年】罪悪感抱え生きた“語り部” 学童疎開船が撃沈 子ども1000人超が犠牲…力尽きた人は波に消え
太平洋戦争中に学童疎開船が撃沈された「対馬丸事件」から、22日で80年を迎えます。アメリカ潜水艦の攻撃を受け、乗っていた1788人のうち、1484人が死亡。子どもの犠牲は1000人を超えました。あの日、沈み行く対馬丸の上にいた平良啓子さんは、 昨夏88歳で亡くなるまで、語り部として平和の大切さを訴え続けてきました。(2022年4月放送)
■寄ってくる死体 「私はこのまま死ぬのかと」
2022年4月のインタビューでは、「死体もよってくるし、波もぶつかってくるし、私はこのまま死ぬのかなと思った」と振り返りました。太平洋戦争末期の沖縄戦が目前に迫っていた1944年8月、啓子さんは当時9歳。本土へ疎開するため、家族6人で学童疎開船「対馬丸」に乗りました。
1944年8月21日午後6時35分、対馬丸は、1788人をのせ長崎に向けて出航。しかし、アメリカ軍の潜水艦に狙われ、出港から27時間後の22日午後10時12分、魚雷が命中します。
平良啓子さん(2022年4月のインタビュー)
「“ボーン!”という音で目が覚めたら、もう船は水浸しになっていて、かたむいているわけ」
「子どもたちがもう本当に、つんざくような声で」
攻撃からわずか10分ほど。対馬丸は、鹿児島県の悪石島沖に沈没しました。乗っていた1788人のうち、1484人が死亡。子どもの犠牲者は1000人を超えました。イカダにしがみつき、生き延びた啓子さん。
しかし、啓子さんは「昼はもう太陽カンカンでしょう。皮膚がただれてくるのよ、ひりひりして痛くなってきてね」といいます。終わりの見えなかった「漂流」。力尽きた人が1人、また1人と波に消えていきました。
6日後、150キロ流され、ようやくたどり着いたのが、奄美大島の宇検村でした。生存者280人のうち、21人がこの付近に漂着しました。
しかし、宇検村には、生存者を上回る100体以上の遺体が流れ着いていました。
生存者の救出や遺体の埋葬を行った大島安徳さん(95)は、「この静かな湾が肉の海だったのよ。小さい子どもたちは目をひんむいたまま(亡くなっていて)、大人はサメにやられたんでしょう。腹なんかが食いちぎられていた」と、当時の様子を語りました。
大島さんたちは、海岸に50体ほどの遺体を埋めたといいます。
大島安徳さん
「においが臭くて埋められないわけよ」
「だから度の強い酒、焼酎を持ってきて。飲んだら感覚がマヒするでしょう。そうでなければ埋められなかったね」
一方、日本軍は、沈没が知られ戦意が下がることを恐れて、厳しい箝口令を敷きました。
大島安徳さん
「軍刀を抜いてね、“気をつけ”の姿勢をして『絶対にこれはよそに言うな!』と。それはつらかったな」
そして、島の人が止める中、助かったばかりの衰弱している生存者でさえ、連れて行ったといいます。
あの海岸には、慰霊碑が建てられました。そこには、犠牲者を弔う大島さんの歌も刻まれています。
いまも残る後悔の気持ち。埋めた遺体は台風で流され、遺族は「せめても…」と遺骨の代わりに海岸の砂を持ち帰ったといいます。
大島安徳さん
「私はそれを見ながら、涙が流れてね、なりませんでした」
「(遺体は)みんな胸にネームをぬいつけてあったんです。せめて、そういうのでもメモしておけばよかったのになと。後悔先に立たずです」
島で唯一の語り部となった大島さん。平和への思いを強く胸に抱いています。
【取材した日本テレビ元社会部・久野村有加記者 対馬丸事件80年に思うこと】
平良啓子さんは2023年夏、急逝されました。平良さんは亡くなる前日も次の講演会に向けた打ち合わせをされていたそうです。
平良さんの記憶は鮮明で、講演会での言葉は力強く、対馬丸事件のことを次の世代に繋げていきたいという気持ちがいつも強く伝わってきました。沈没から漂流という想像を絶する過酷な体験をして生存した平良さんですが、一緒に乗船していた兄やいとこを対馬丸事件で亡くしています。対馬丸記念館の、子どもたちの遺影が並ぶ部屋で講演した後は「みんなが私を見ているようだった。『ちゃんと伝えてくれてるの?』と訴えられているようだった」とお話しされ、自分だけが生き残った罪悪感を抱き生きて来られたのだと感じました。