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能登“孤立集落”で助かったはずが…5日後に死亡 厳しい避難生活と能登を離れる“ためらい”の中で

2024年1月19日 21:46
能登“孤立集落”で助かったはずが…5日後に死亡 厳しい避難生活と能登を離れる“ためらい”の中で
珠洲市仁江町で起きた崖崩れ(Aさん親族1月2日撮影)
能登半島地震発生の翌日、東京にいた私が電話で取材した女性がいる。震度6強を観測した石川・珠洲市の中で、当時、孤立集落となっていた仁江町で被災した72歳の女性だ。道路の寸断で現地取材に入れない中、孤立集落の厳しい現状を伝えてくださったが、この5日後、エコノミークラス症候群を発症し、女性は死亡した。災害関連死とみられている。そこには孤立集落での厳しい避難生活や地元を離れることへのためらい、そして被災地での医療の厳しい現状があったという。女性に何があったのか、東京から連絡を取り続けていた義理の息子Aさんに話を伺った。(日本テレビ 日高水樹)

■30畳ほどの集会所に約60人 座りっぱなしの避難生活

1月1日午後4時すぎ。石川県能登地方で最大震度7を観測する地震が発生した。

Aさんの妻の実家は日本海に面した珠洲市仁江町にあり、そこには72歳の女性(以下、義母)が一人暮らしをしていた。その日のうちに電話がつながり安否は確認できたものの、義母から伝えられたのは厳しい被災地の状況だった。

ほとんどの家が倒壊。仁江町では11人が生き埋めとなり、地区の人たちだけで救助活動を行っていたが、救助は進まなかった。義母の家も半壊状態で到底住める状態にはなかった。土砂崩れで市街地につながる国道249号も、高いところに逃げられる唯一の山道も寸断され、孤立状態に。大津波警報が出ている中、海から目と鼻の先にある「仁江集会所」に義母や地区の人たちは集まった。集会所の広さは20~30畳ほどで、そこに約60人が身を寄せ合っていたという。また義母は足にケガをしていた。

義母は集会所でずっと座っていたという。Aさんはこう話した。「1週間、ずっと座っていたみたいです。足が痛くて唯一できる姿勢が座っている状態で、狭いスペースだったのもあって周りに遠慮して座っていたと思うんです」

義母の過酷な状況を聞いたAさん。地震発生の翌日、2日に「この状況を伝えたい」と日本テレビに連絡をしてくれた。

当時、仁江町には取材に入れる状況ではなく、私は連絡先を伺いAさんの義母に電話取材させていただいた。集会所には発電機があり、携帯電話の充電ができること、義母の身にただちに危険が迫っていないことなどを確認した上で、話を伺った。電話口の義母は元気な様子でハキハキと答えてくださったが、語られるのは「孤立状態が続く中、お正月に用意していたおせち料理を持ち寄るなどしてしのいでいる」といったギリギリの避難生活だった。断水も起きた状況で、水も十分には取れなかったという。

義母「ほとんどの家が倒れて屋根は全部ダメです。もう使い物にならない感じで。半壊状態もありますから」「(近所で)11人埋まってそのうち3人助けられたのですけど、まだ土の中というか」記者「救助はどうなっていますか?」義母「今消防の方をいれてみんなで作業しているけど、まだ重機が全然来られないので大変です。車が通行できない」記者「車が通行できないのですか?」義母「土砂崩れがあります。次の集落も生き埋めの人もおるし」

孤立集落の切実な声としてこの日、夜のニュースで全国にご紹介した。

■発生から3日後 自衛隊が到着するも病院に行く決断できず

Aさんによると、地震発生から3日後、ようやく自衛隊が隣町の珠洲市・大谷町に到着。自衛隊員らが歩いて食料などの支援物資を運んでくれるようになり、希望が見えた。自衛隊員の手で生き埋めになった人の救助も徐々に始まったという。

その中、気になっていたのが義母の体調。足にケガをしていたので、Aさんは電話で「足大丈夫?病院行ったら」と声をかけたという。しかし義母は「私は大丈夫。もっと大変な人たちのためにやってもらいたい」としか言わなかった。

当時の様子をAさんは「道が通れないっていうことと、生き埋めになっている人もいて、地元を離れるっていうのはその場所を捨てるっていうのか、みんなに対して自分だけという躊躇をしていたのだと思います」と振り返った。

翌1月5日、生き埋めになっている人がほとんど救出されたタイミングで義母はようやく病院に行く決断をした。隣の大谷町まで移動し自衛隊によって、6日午後、珠洲市街地の大きな病院に搬送された。

■「骨折しているけど受け入れられない」直面した被災地の医療現場

病院で義母は膝の骨折と診断された。骨が陥没するくらいの骨折だった。しかし、病院からは「骨折はしているのだけれど、もう受け入れられないから、一度帰ってほしい」と告げられた。

72歳の義母の身を案じ一緒に被災した親族が、なんとか入院させてもらえないかと相談すると「石川県内では受け入れられる病院がない。他の県、長野県や愛知・名古屋なら搬送先が見つかるかもしれない」と言われ、「どこでもいいから搬送してください」とお願いしたのだという。

入院はできないものの搬送先が見つかるまで病院内にとどまることになった義母。Aさんも当時義母が病院のどこにいたのか把握できていないという。

その知らせは突然だった。病院到着の翌7日午後、現地にいる親族から「義母が急変した」と連絡がきた。病院内で、脈拍がなく心臓が止まりかけている状態で医師に発見されたのだ。義母はエコノミークラス症候群となり、肺の血管に血の固まりが詰まる「肺血栓塞栓症」を発症していた。緊急手術が必要だった。しかし、この病院では環境が整っておらず、なんとか薬の投与でしのぎながら、別の病院への搬送先を探したという。男性は「できることもないので祈るしかなかった」。しかし午後3時ごろ親族からの電話は「ダメだった…」。義母の死亡が確認された。この日の朝、義母が電話の先で「すごい眠い眠い」と話していたのがAさんにとって「最後の会話」となった。このときは「なんかほっとしたのかな」と感じたという。

■好きなコーヒーを準備したのに…

Aさんは、義母が県外の病院に到着した時に準備していたものがあった。「搬送先を見つけているときにもしかしたら東京の病院が見つかるかもという話だったので、子どもたちとおばあちゃんコーヒー好きだからすぐにいれらるようにポット買おうって言って買ったり」。退院したら寝られるように自宅の部屋も片付けもしていたが、義母にコーヒーをいれることはなかった。

Aさんが子どもたちと仁江町の実家に行くと、義母は目の前に広がる海でとれたサザエやアワビを刺し身やつぼ焼きにして食べさせてくれたという。72歳になっても地元の道の駅でパートで働き、地元のおいしいご飯を孫たちに食べさせてくれる優しくて明るい人だったという。

Aさんは義母の死について、「病院の先生も看護師さんも本当に疲れ切った顔で一生懸命患者さんに向き合ってくれていたと聞いた。普段は手術もできる病院だから地震がなかったら手術できたと思うし、地震がなかったら膝が折れた状態で帰されることもなかったと思う。地震がなかったら…。手術ができなかったのは病院の人たちのせいじゃない」涙を流しながらやり場のない思いを話してくれた。

「早くに支援が届いていたらというのと、無理やりにでも、地元を捨てるとかそういうことではなくて、無理やりにでもそこから離して環境の整っている場所に避難させられたら」と義母への思いに悔しさをにじませる。そして「最初から大げさなくらいやってもらったら、もっと早く支援の手が仁江町に行ったかもしれない。そうしたら義母も安心できてもっと早く病院に行ったかもしれない。また、医療についても県内の設備と態勢だけで考えるのではなくて、県外にどんどん運びだせるような道を決めてくれていたら良かったのかなと」とも話した。

これからも増加が懸念される「災害関連死」。国や自治体が二次避難を促すなど対策はとられているが、被災者の多くは今いる避難所にとどまったままだ。その背景にはやはり「住み慣れた土地から離れづらい」「足が悪くて迷惑をかけるかもしれない」といった“ためらい”があるという。また被災地の医療現場は依然、ギリギリの状態が続いている。ただ救えたはずの命をこれ以上「災害関連死」で失わないよう、誰もが安全で安心して暮らせる環境づくりを急いで欲しい。

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