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天皇皇后両陛下の能登お見舞いに見える“災害との向き合い方”

2024年4月27日 13:00
天皇皇后両陛下の能登お見舞いに見える“災害との向き合い方”
天皇皇后両陛下 能登半島お見舞い
天皇皇后両陛下は3月22日と4月12日、能登半島地震の被災地を見舞われました。1か月に2度のお見舞いから見えてきた両陛下の災害との“向き合い方”について、日本テレビ客員解説員の井上茂男さんに聞きました。

◾️腰を落とし丁寧に声をかけられたお見舞い

――天皇皇后両陛下は3月22日、能登半島地震の被災地を見舞われました。ヘリコプターで入った輪島市内では、マイクロバスで移動されると、多くの市民らが手を振って出迎えました。

――大規模な火災があった「輪島朝市」では、両陛下は被害状況の説明を受けたあと、深く頭を下げられました。

――続いて訪れた避難所では腰を落として被災者に「大変でしたね」などと丁寧に声を掛けてまわられました。

天皇陛下:「おケガとかは大丈夫ですか?」
皇后さま:「怖い思いをされましたね」
     「こちらもまだ水は使えないんですか?」
男性:「外は出ますけど中はまだ」

――その後、ヘリで珠洲市に移動。両陛下は、4メートルを超す津波が襲った飯田港では津波被害の大きかった地区に向かい、黙とうされました。
お見舞いは現地の負担にならないように昼食を持参し日帰りの日程で行われました。

◾️その都度バスの座り位置を変える“お心遣い”

――3月22日は、井上さんも現地で取材されたそうですね。

はい。この日、私は輪島市で取材しました。発生からおよそ3か月。復旧や復興の状況を見ながらようやく実現したお見舞いでしたが、話を聞いた皆さんは、遠方まで両陛下が来てくれたことを「元気をもらった」と喜び、「そろそろ前を見て歩き出さなければ」と、一つの節目と受け止めていたのが印象的でした。

輪島市の女性:「よく来てくれたな、ありがたいなと思いました。辺ぴなところまでよく来てくれたと」

今回は、地元の負担に配慮して宮内庁のマイクロバスを東京から運んだようですが、驚いたのは、沿道から「ありがとう」の声が上がると、両陛下が沿道に並んだ人たちのいる方に合わせて、座る場所をその都度変えられていたことです。

――その都度ですか?

この日のバスの両陛下の座り位置をまとめてみました。

(左上の画像)
まず、こちらの画面のように、「輪島朝市」に向かう時は、右側の席に両陛下が並んで座られていました。

(右上の画像)
次は、同じ道を戻って避難所に向かう時です。前後に分かれて座られています。

(左下の画像)
避難所からヘリポートに向かう時は、右側に陛下、皇后さまは通路に立たれていました。

――立ち上がっていらっしゃいますね。

(右下の画像)
また、こちらは珠洲市の様子ですが、皇后さまは陛下の後ろの席で、立って手を振られていました。

――こう見るとよく変化がわかりますね。

こちらは私がスマホで撮影した映像ですが、わかるでしょうか、天皇陛下がご自分で窓を開けられているんです。ガラス越しではなく、直接に目を合わせて励ましたい、という思いだと感じました。

――映像と画像をみて、皇后さまが立たれていることにも驚きました。一人ひとりと目を合わそうとされていたのかもしれませんね。臨機応変に移動して手を振られているという感じですね。

◾️上空から見て、見舞い――“立体的”な日程

現地の滞在は輪島と珠洲でおよそ5時間。うちヘリコプターでの移動はおよそ1時間でした。両陛下はヘリから地震で海岸が隆起した漁港や、崖崩れが起きた道路、亀裂が入った千枚田、珠洲を襲った津波の被害状況など、奥能登の海岸線をご覧になりました。

知事らから被害状況を聞き、上空から被災地を“面”で見て、避難所では被災者を見る、沿道の人たちに丁寧に手を振る――短い滞在であっても“立体的”な日程だと思いました。

――ヘリコプターは単なる移動の手段ではなくて、移動の時間も被災地を見舞うという意味があったんですね。

◾️届いていた誕生日映像のメッセージ

今回、強く感じたのは、両陛下の気遣いの“力”です。

こちらは、2月23日の天皇誕生日に公表された映像です。天皇陛下の向かって左側に置かれているのが珠洲焼のつぼ、皇后さまの右に置かれているのが輪島塗の「飾盆」です。

――きれいで細かいですね。

両陛下がお二人で選ばれた品々だそうです。能登の伝統工芸品を映し込むことで、被災地の人たちを励まそうとされていると思いました。

この輪島塗の飾盆の作者で、重要無形文化財保持者、いわゆる“人間国宝”の前史雄(まえ・ふみお)さんに、避難先の金沢市でお会いしました。工房のある「輪島朝市」の自宅は地震で半壊、その後火事で焼け、作品から、道具から、書きためた図案帳から、全てが焼けてしまったそうです。

前さんの作品は平成30年に陛下が石川県を訪問した時に当時の知事から献上されました。前さんご自身は自分の作品が皇室に贈られていたことを全く知らず、新聞の写真を見て自分の作品が置かれていることに驚き、“励ましのメッセージ”を感じたそうです。

漆芸家 前史雄さん:「珠洲焼と輪島塗を選んだということは、励ましのお言葉、お気持ちだったろうと思います。それはよくわかります」「天皇陛下においでいただいてよかったなと思う。みな勇気も出ますし、慰められるし」

――両陛下は被災地と離れていたとしても、能登に思いを寄せていらっしゃるということがよくわかりますね。

両陛下の励ましの思い・気持ちは、しっかり届いていること、そして、その発信の“力”というものを改めて感じました。

◾️等しく――同じ県への1か月に2度のお見舞い

――そして、両陛下は4月12日、2度目のお見舞いをされました。この日、機材トラブルのため1時間遅れて能登空港に到着したあと両陛下は、最初にヘリコプターで穴水町に入られました。

――半数近い店舗が全・半壊した商店街では、営業している美容院に近づかれ、「大変でしたね。大丈夫でしたか」と予定外の声かけもあったということです。

――続いて大勢の町民らが出迎えるなか避難所を訪問されました。腰を落として被災者一人ひとりと目を合わせ「大変でいらっしゃいましたね。おけがはないですか」などと声をかけられました。

被災した男性:「泣けてきたというか。本当に心から心配していただきました」

――穴水町を出発する前には、土砂崩れで16人の命が奪われた地区に向かって両陛下は深く頭を下げられました。

――続く能登町でも、大勢の町民が迎えると、両陛下は手を振って応えられていました。

――28世帯43人が避難生活を送る中学校で、被災者を見舞ったあと、両陛下は、4.7メートルの津波が襲い建物被害の大きかった白丸地区を訪問されています。1人が亡くなったこの場所でも黙とうされました。

――奥能登へは続けての2度の訪問となりました。

災害発生後に「お見舞い」があって、数年後に「復興状況の視察」というのはよくありますが、今回のように、一つの県のお見舞いが1か月のうちに2度、というのは例がないと思います。半島の災害という事情があり、石川県との調整で決まったようですが、両陛下がそれだけ深く案じ、心を寄せられている表れと言っていいと思います。

2度のお見舞いで訪ねた4つの市や町とも、視察・黙とうと避難所のお見舞いにかけられた時間はほぼ同じでした。そこにあるのは“等しく”というココロだと思います。ニュースはどうしても被害の大きさに左右されますが、両陛下は被害の大小でなく、等しく、広く、被災者を励まそうとされていると感じました。2度のお見舞いで被災地に“元気”が広がりましたが、令和の両陛下の災害との“向き合い方”も見えてきたように思います。

――お見舞いの日程の一秒一秒に両陛下の思いが込められていることがよくわかりました。被災した皆さんの心に寄り添うという優しさが垣間見えた訪問でしたね。

そうですね。

【井上茂男(いのうえ・しげお)】
日本テレビ客員解説員。皇室ジャーナリスト。元読売新聞編集委員。1957年生まれ。読売新聞社で宮内庁担当として天皇皇后両陛下のご結婚を取材。警視庁キャップ、社会部デスクなどを経て、編集委員として雅子さまの病気や愛子さまの成長を取材した。著書に『皇室ダイアリー』(中央公論新社)、『番記者が見た新天皇の素顔』(中公新書ラクレ)