寝床は牛小屋か野宿、ロシア兵が女性を暴行…我が子にも話してこなかった「戦争の記憶」を語りつぐ 福島県
戦争で生まれ育った町を追われ、日本へ引き揚げてきた人たちがいます。その過酷な体験から口を閉ざす人が多い中、樺太(現在のサハリン)から引き揚げてきた女性は、「戦争は二度と繰り返してはならない」と自らの経験を語り継いでいます。
終戦後に樺太から引き揚げ、福島県喜多方市で暮らした人たちがいます。その数は18人。時が経つにつれ当時を知る人が亡くなっていく中、市内で今生きているのは、白田千恵子さん(85)ただひとりです。白田さんは1939年に、当時日本領だった樺太で生まれました。樺太には38万人ほどの日本人が暮らしていたと言います。
■白田 千恵子さん(85)
「生の魚とかカニとかを食べていた。すぐ海で、すぐ獲れる。豊かでしたよ」
しかし、小学校に入学して間もない頃、その暮らしが一変します。
■白田 千恵子さん(85)
「学校に行った途端にワーとサイレンがなって、戦争が始まるからみんな逃げるんだよって」
母・千代さんとともに着の身着のままで家を出て、終戦を迎えるまでのおよそ4か月間。住む場所はなく、寝床は牛小屋。時には、野宿することもあったといいます。十分な食料もなく畑のジャガイモをかじり、空腹を満たすこともありました。
「きょうを生きられるかもわからない」そんな極限状態の中で、忘れることができない出来事があります。
■白田 千恵子さん(85)
「女性がロシア兵に強姦されたとかそういうのも見てきたからね。母親のことも連れて行こうとしたわけ。私は泣いて手をつないでだめだ、だめだと言った」
必死の思いで母の手をひっぱり、なんとか被害はまぬがれたと言います。それでもわずか6歳の心には大きな傷を残しました。
迎えた終戦。目の前には跡形もなく焼け焦げた光景が広がっていました。
■白田 千恵子さん(85)
「みんなうわーってくすぶりかえって煙だけが臭って。石1つないんだから焼け野原で。何も残ってない。ぶすぶすぶすと煙だけ」
それから、1年4か月後、樺太からの集団引き揚げが始まります。白田さんも1948年、日本へ引き揚げ、縁もゆかりもない喜多方市にたどり着きました。
■白田 千恵子さん(85)
「引き揚げてくるときもみんな置いてくるわけでしょ。何一つ持ってこられない。昔のものはこれ一枚になっちゃった」
唯一残るのは、母と一緒に撮った写真だけ。樺太で母から教わった編み物は今も続けています。
終戦から79年が経ち、2023年から始めたことがあります。第二の故郷・喜多方市で自らの戦争体験を語り継ぐことです。これまで我が子にも話してこなかった戦争の記憶。「自分にできることを」と人前で語ることを決めました。
■白田 千恵子さん(85)
「今の若い人たちにこういうことがあったんだっていうことを伝えたいと思って。私はそういう苦労があったし、それをなくすためにも語っていかなくちゃいけないのかなって」
戦争を体験した人が年々減っていくなか、次の世代がどのように受け止め、語り継いでいくのかが問われています。
■白田 千恵子さん(85)
「悔しい。戦争っていうと悪いこと何もしないのに。なんであんなこと始めるんだろうね。二度と繰り返してもらいたくないです」