【戦後80年】模擬原爆・パンプキン ~極秘訓練のその先で~(ショート動画)
■イーザリ―
「よく夢を見る。女性や子どもたちが炎の中を逃げまどっている」
■上圷日支さん
「実験されたんじゃ、たまったもんでないけどね」
広島・長崎の悲劇につながった模擬原爆。「原爆投下計画」の真相に迫ります。
原爆の訓練に使われた「模擬原爆」。大きさや形は長崎型の原爆、「ファットマン」とうりふたつ。
その形から「パンプキン」と言われました。
■ポール・ティベッツ
「作戦準備が整うと我々には訓練用模型の爆弾が与えられた。爆撃訓練を行うことで、本物の爆弾と同じ落下の特性を経験できた」
原爆投下の2週間前に開始した訓練。滋賀県大津市では、工場にパンプキンが投下され、16人の命が奪われました。
当時、爆弾を目撃した人は…。
■桝本和子さん
「朝7時くらいやったと思うんですけども、ものすごい音がしたんは覚えてるんです。大きい煙が上がったからね、あそこに爆弾が落ちたんやなとは思ってました」
■谷村喜八郎さん
「体が揺れたような気持ちがしたと思ったら、後ろの柿畑の柿が一斉にざわざわと揺れてね」「それがほんまもんやったら完全にこの辺アウトでしょ」
訓練では49発のパンプキンが投下され、死者は400人、負傷者は1200人に上りました。
4度の訓練に参加したアメリカ兵、クロード・イーザリー。1945年8月6日。原爆が投下できるかどうか天候を確認するため、広島上空に向かいます。
午前7時15分。イーザリ―は仲間に、無線で状況を伝えます。
■イーザリー
「快晴。視界良好。第一目標広島。攻撃せよ」
その1時間後。広島に原爆が投下され、14万人の命が奪われました。
そして8月15日…。日本の降伏により戦争は終わりを迎えます。しかし、原爆計画は水面下で続いていました。アメリカ軍の幹部が明かしたのは、広島と長崎に続く原爆投下…。
■米陸軍参謀総長(大戦時)ジョージ・マーシャル
「(長崎への投下以降)我々はさらに9発の原子爆弾を準備していた。日本本土南端への上陸作戦には 間に合う予定だった。原爆を1発か2発爆発させ、それから上陸しようと考えていた」
原爆の投下は、作戦にあたったアメリカ兵に大きな傷を残しました。17年後、イーザリーが口にしたのは罪の意識でした。
■イーザリー
「広島市郊外の人がいないところに原爆を落とすべきだった。原爆が何をもたらすのか人々に見せるべきだった。そうすれば民間人の命を救うことができたのに。10万人もの人を殺すことになるとは思っていなかった。よく夢を見ます。女性や子どもたちが炎の中を逃げまどっています。まさに地獄です」
去年7月、最初のパンプキンが落とされた地域に石碑が建てられました。刻んだのはパンプキンと原爆の記録。
■石碑の建設に関わった野口友則さん
「原爆投下作戦ってのは広島・長崎2点だけじゃなくて、模擬原爆も含めると日本全国に広がりを持った作戦だったっていうか。落とす方からしたら同じっていうか。だからそれが逆に恐ろしい」
原爆投下を成功させるため繰り返されたパンプキンの投下訓練。その先にあった戦争のむごさ。忘れてはならない記憶です。