【特集】原爆でやけどした左足を武器に 広島サッカーの礎を築いた元日本代表選手 教え子に託したサッカーと平和への思いとは
先日、広島で開催されたサッカー日本代表戦を、特別な思いで見つめた人がいます。広島サッカーの礎を築き、日本代表・森保一監督の育ての親でもある今西和男さんです。被爆者でもある今西さんは、今回の代表戦に何を思ったのでしょうか。
今西さんは、日本代表選手としてアジア大会に出場。国際大会で活躍したサッカー選手でした。引退後はマツダの監督に就任し、チームマネージメントにも尽力しました。サンフレッチェ広島出身で、現・日本代表監督の森保一さんをスカウトしたのは、今西さんでした。1993年、Jリーグが開幕。サンフレッチェ広島の総監督に就任した今西さんは、翌年には、ステージ優勝を果たしました。先日、広島で20年ぶりに開催された日本代表戦で今西さんは、熱狂するサポータの中で、静かに試合を見守っていました。
■今西 和男さん
「東京では代表の試合があるので、日本代表のユニフォームを着ている人がたくさんいる。広島で(日本代表のユニフォームを)見ることは珍しいですね。」
原爆で大やけどを負った左足で、日本代表選手へ
今から79年前、今西さんは被爆しました。左半身に浴びた熱線。特に、左足に大やけどを負いました。今西さんが4歳のときでした。
■今西 和男さん
「昭和16年生まれだからね。被爆した、原爆でね。広島駅のすぐそばで。だから戦争はきらい。当時の医学で言ったら、やけどした跡を手当する薬もないんです。そしたら、ハエがたかるんです。やけどみたいなところに肉汁が出てくる。それを吸うために(ハエが)とまるんです。追い払ってもすぐに来るんですよね。」
高校2年のとき、サッカーに出会い虜になりました。しかし…
■今西 和男さん
「試合になったら、やっぱりショートパンツになるじゃないですか。サッカー大好きだけど、試合がいやでね。やっぱり、やけどがみえるのが。『やけどこぼれの今西』って言われたら、腹が立って腹が立って。左足は突っ張っていて、やけどで。原爆のときの。ボールを奪うことが難しい、なかなかね。そうするとね、『今西、おまえタックル練習しろ』と、すり傷だらけでした、ずっと。」
やけどを負った左足でのスライディングタックル。今西さんは体を張った全力プレーで日本を代表するディフェンダーに成長したのです。
教え子・森保一監督への期待と思い
今西さんが向かった先は、新しいサッカースタジアムにあるミュージアム。壁画の中心には、教え子である森保監督の姿がありました。
■今西 和男さん
「森保という選手は、運動量が非常に多い。ディフェンスラインの指示を(ラインを)上げながら攻撃の組み立て。それができる選手になるだろうと。そのうち、だんだん彼も成長し、チーム全体を見られるような、そして指示を出せるような選手に成長していったんですね。」
森保選手はサンフレッチェの監督となり、3度の優勝に導きました。日本代表監督でも、手腕を発揮。そんな教え子に大きな期待を寄せています。
■今西 和男さん
「スポーツというのは、国のために戦うことはあるけれど、海外の人たちと交流できる喜びを感じる(森保は)指導者に成長してくれたんですよ。彼がここで指揮をとって、みんなに『僕は広島でサッカーを得て育ちました』と、ひとこと言ってくれればうれしいですね。」
長崎で育ち、広島のクラブで成長した森保監督。今回の代表戦には特別な思いがあります。
■日本代表 森保一監督
「我々日本代表も、日本で起こったことを、広島で起こったことを考え、そして、世界に発信できるように、その思いを持って広島で試合ができればうれしいなと思います。」
教え子の思いは、被爆者である今西さんの思いでもあります。
思いが形になった代表戦
日本サッカー協会前会長の田嶋幸三さんは、今西さんについて…
■日本サッカー協会前会長 田嶋幸三さん
「僕らにとっても日本のサッカーをちゃんとつくって下さった方だし、昔、広島・静岡・埼玉が(サッカー王国と)呼ばれていた時代。一番の我々の恩人です。」
6月11日に広島で行われたシリア戦で、日本代表は快勝しました。
■今西 和男さん
「(広島での代表戦ができて森保監督は)うれしいと思いますよ。高校卒業してからサンフレッチェでずっとトレーニングし、試合をしましたから。第一の故郷は長崎ですが、(広島は)それに勝るものがあるんじゃないですかね。自分の思っていることを、選手にちゃんとやってもらう力を持ってますんでね。是非がんばってほしいと思います。」
平和の大切さを身をもって知っている今西さんと、世界に発信し続ける森保監督。新サッカースタジアムでの代表戦は、二人の思いを形にできた一時でした。