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燃えてしまった輪島朝市に「いつか必ず帰る日を信じて…」”出張スタイル”で踏ん張る母娘

2024年6月29日 18:00
燃えてしまった輪島朝市に「いつか必ず帰る日を信じて…」”出張スタイル”で踏ん張る母娘
けたたましく鳴り響く警報音。家を粉々にし、町を焼き、299人もの命を奪い、人々の暮らしを一変させた能登半島地震から7月1日で半年。奥能登の人口は4000人近く減り、たくさんの事業所が閉鎖に追い込まれた。あの日、街を真っ赤に染めた地震による大規模な火災。4万9000平方メートル、東京ドームよりも大きな面積分が焼け落ちた輪島朝市が、いま動き出している。
働く場を失った朝市のおばちゃんたち…その姿は輪島から遠く離れた金沢の港に、駅に、そして県外にあった。元日から生き延びるだけで精いっぱいだった被災地、そこからもう一度地元で生きていくために奮闘する能登へ…。「朝市の灯を絶対に消さない」と、朝市の復興、能登半島の復興へ、その一心で立ち上がり、歩き始めた母娘の戦いを追った。

「朝市が燃えているぞ!」テレビカメラは、1000年以上の歴史を持つ輪島朝市を捉えていた。「朝市のおばちゃん」たちの「こうてくだぁ(買ってください)」という声が響く通り。国内外から年間50万人以上が訪れる奥能登随一の観光名所だ。鮮魚や加工品を販売する南谷良枝さんは、高齢化していく輪島朝市の中で、ピンク色の服を着ていつも元気な声を響かせる若手の旗頭だ。

南谷さんは、元日、輪島から100キロ離れた津幡町の神社に初詣に訪れ、商売繁盛を祈願していた。地震速報が示す場所は、地元能登。道路が寸断されたため、近くの道の駅で、車の中で不安な一夜を過ごした。翌日、無事を祈る気持ちで輪島に帰り目の当たりにしたのは、変わり果てた街の姿だった。毎日露店を出していた輪島朝市が、すべて燃えてなくなっていた。

一夜干しや塩辛など朝市に並べる人気の品に仕上げる魚の加工場も大きな被害を受けた。地盤が沈下し、建物が歪み、何百万円もする機械も倒れ、壊れた。「復旧に何年かかるか想像もつかない」と話す南谷さん。家族で朝から晩までこつこつと作り上げてきた自慢の商品が全て無くなった。祖母から受け継いだ日本三大魚醤の一つ「いしる」も、そのほとんどを失った。

地震から6日で動き出した最年少組合員

水も食料も手に入らず、先の見えない被災地・輪島。不安だけが募り、その日を生きるだけで精一杯だった。発災6日目、変わり果てた輪島の姿がSNSにアップされた。呆然とする南谷さんの姿を見て、22歳の長女・美有さんが、暮らしていた町の今の姿を撮影して回り投稿したものだった。
2年前から母とともに朝市の店に立ってきた美有さん。「落ち込んだままではいけない」と、自身が将来継ぐことを決めた母の会社と、大好きな地元を再起させるため立ち上がった。奮起する一方で、こんな本音を漏らした。「これまで自分もそうだったけど、被災していない人にとって、地震は『他人事』という部分があったので…」忘れ去られてしまうのが怖い、という思いも大きいという。

石川県の馳知事は「まだボランティアには来ないでください」と呼び掛けていた。公的な復旧支援を優先するためだったが、能登の人たちは不安と孤独に包まれていた。「多くの人に輪島の今を知ってもらって、助けてもらおう」美有さんは間もなくクラウドファンディングを立ち上げた。「今はお返しする品はないけれど…いつかお返しをするので…お願いします」悲痛な叫びを全世界に発信した。

南谷さん親子はとにかく動かねばと、仕事を再開させるため知り合いを頼りに魚の加工ができる工場を探して回った。住まいを失い、高齢の親戚を連れて各地を転々とした。新型コロナウイルスにも、インフルエンザにも連続してかかった母の良枝さん。美有さんは「いつも元気いっぱいな母だったんですけどね…」と、不安な表情を見せた。先の見えない日々に、親子は心も体も限界だった。

「お客さんに会えることが、一番うれしいんや」

まだ寒さを感じる3月はじめ。2か月ぶりに包丁を握る日がやってきた。輪島から100キロ離れた金沢市の港に、輪島朝市のメンバーが集まっていた。金沢の漁業協同組合が場所を提供し、朝市のメンバーが魚を加工するための仮の作業工場が作られたのだ。包丁を握るのは大晦日以来。朝市のおばちゃんたちに笑顔が戻っていた。

「やっぱり手が覚えとるね」「魚さわるのが楽しいわ」準備していたのは、この場所で開かれる「出張スタイル」の輪島朝市で販売するための商品。輪島の朝市通りに並んでいたころと同じようにオレンジ色の天幕を並べ、市を開き、対面でお客さんと接する。南谷さん親子も露店に並べる品を作り始めた。魚をさばき始めてまだ間もない娘の美有さん。少しだけぎこちなく映った背中に、母・良枝さんがつぶやいた。

「美有が店を継ぐって決めたからね。これまで以上に頑張って、いい形で受け渡したいんや…」出張輪島朝市が初めて開かれるその日、金沢は朝から土砂降りの雨。それにもかかわらず、県内外から1万3000人が訪れた。金沢の漁港に並んだオレンジ色のテント。あちらこちらで響く「こうてくだぁ」の声。
人の波が途切れなかった。南谷さんの店にもなじみのお客さんが次々と訪れた。美有さんの奮闘ぶりを知り県外から訪れた人も大勢いた。接客する美有さんの顔には、これまでの張りつめた表情から、幼い笑顔が浮かんでいた。

お客さんから南谷さん親子にかけられた「生きていてくれて本当に良かった」という言葉の数々。笑顔と涙があふれた1日になった。

地震から半年。今では全国各地から出店の依頼があり、組合員の有志が兵庫県や愛知県など、県外に出向き市を開いている。避難している金沢から県外へ出かけるには長距離移動の負担もあり、売り上げも微々たるものだが、なんとか生業を継続することはできている。とはいえ、大きな課題は残っている。

“出張”ではなく、輪島の、あの通りでテントを並べる「輪島朝市」としての復興。出張朝市に参加できているのは全組合員のわずか5分の1程度。もともと高齢化が課題だった輪島朝市では、移動手段を持たない人も多く、商品の在庫のほとんどが焼失した人も多くいる。輪島に残っている高齢の組合員は、今も地元の仮設住宅で小規模な朝市を開いたり、中には、まだ避難所生活を続ける人もいるのが現状だ。

輪島で魚を仕入れていた南谷さんは、遠方の仕入れ先に頼っている。輪島の漁港は海底が隆起し、すべての船が半年にわたって港内に留められたまま…。漁港の再開の目途は立っていない。「輪島で再開できる日が来るまでくいつなぐ」コロナ禍でかさんだ借金、地震でめちゃくちゃになった加工場…それでも地元に帰る日を信じて、出張朝市で踏ん張っている。

まもなく半年を迎える6月のはじめ、輪島の朝市通りに重機の音が響いた。手付かずのままだった焼け野原の公費解体が始まったのだ。持ち主全員の許可が必要で申請の受理に時間がかかっている公費解体だが、輪島朝市は、建物としての機能を失ったとされる「滅失登記」の手続きが行われたため、ようやく動き出した。これで、そう遠くないうちに更地になる日がくる。そしていつか、その場所で再びオレンジ色のテントを並べることができるのだろうか…。

南谷さんは、改めて、地震で失ったものはあまりにも大きすぎると話した。「これまでの人生は何だったんだろう」と思う瞬間もあったという。それでも、「5年後になるか10年後になるかわからないが、みんなで輪島に帰る日に向けて続けていくしかない」いつかくるその日を信じて。先の見えない暗闇の中、きょうもピンク色のポロシャツを着て全国を駆け回っている。

編集後記

あの明るく優しい南谷さんが、地震後、絶望的な表情で話す姿が瞼に焼き付いている。高齢化する輪島朝市をなんとか盛り返そうと奮闘する姿を応援していただけに、なぜこんなことになってしまったのかと、私自身も現実を受け止められずにいた毎日だった。地震発生当初、石川県全体が不安な日々を送っていたが、日が経つごとに、その思いにも地域差が出てきたように感じる。
私も住む金沢では、これまで通りの日常が流れている。金沢に避難してきた南谷さんが「なんだか別世界に来たみたいや」と放った一言にハッとさせられたのを今でも鮮明に覚えている。美有さんが言うように、被災した当事者以外は、気づかぬ間にどこか“他人事”になってしまっているのではないかと感じた。そんな中、6月3日に再び緊急地震速報が鳴り響いた。改めて元日のあの瞬間を思い出した人は多く、離れた金沢にいる私も身震いした。
多くの人が、「こんな大地震が起きるなんて」と話す。正直、私もそうだった。しかし、身近で起きたのが現実なのだと、取材を通して感じている。南谷さんの姿から、知っている人が被災者として過ごす現状を知ったことで、初めて災害を自分事として考えたように思う。「いつ、どこで起こるかわからない」地震大国日本に住む多くの人に、この南谷さんの半年を通して「災害を自分事」としてもう一度見つめなおしてもらえたら幸いだ。

※この記事は、テレビ金沢と Yahoo!ニュースによる共同連携企画です。

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