大正時代に失われた伝統技術「長崎漆器」を令和に 輪島で修行し復活に挑む若き男性作家《長崎》
江戸時代、出島から海外へ輸出されていた「長崎漆器」。
その復活への取り組みです。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「これはすき漆と言って樹液からとった。(道具は)クジラのヘラ。精製した漆、これに顔料をいろいろ混ぜるといろんな色の漆ができる」
令和の時代に新たな作品を、若き漆芸作家が制作を始めました。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「赤いお椀の色に透き通った漆を塗り重ねていく。漆のムラができないように均等に。(この技術を)どうやって後世に残していけばいいのかが一番の課題」
長崎市の漆芸作家 大田智宏さん38歳。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「“長崎螺鈿(ながさきらでん)” という途絶えた技術が元々長崎にあって、そういう技術を今、再確認して技術をやっているところ」
かつて長崎で作られていた"長崎漆器"の復活に取り組んでいます。
英語で「japan」と表現される「漆器」。
長崎漆器の歴史は古く、はじまりは江戸時代、18世紀前半にさかのぼります。
職人たちの姿は、長崎市の松森神社にも。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「"職人尽”が松森神社にあるが、そこに漆を塗る作業が彫られたりしてるので、実際にいたんだなって」
長崎の郷土史家 越中哲也さんの著書によると、出島から海外へ向けて多くの長崎漆器が作られ輸出されていたそうです。
博物館では、当時のきらびやかな世界を感じることができます。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「長崎漆器の作品は基本的に花鳥風月。特徴的には螺鈿=アワビ貝を0,1ミリ以下に削って、裏から絵を描いて銀箔を貼って漆を重ねていって研ぎだす」
しかし、その制作は1914年に途絶えました。
▼「漆」との出会い 石川県輪島で漆芸技術を学ぶ
もの作りが好きで、建築や家具の製作文化財の修復などをしていた大田さん。
見聞を広めようと7年ほど前に、全国の様々な工房を訪ね歩いたのが「漆」との出会いでした。
長崎漆器の存在もその時に 知ったそうです。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「(漆に)金とか銀というイメージがその頃なくて、お椀の黒、赤という表現しかないんだろうと思ったけど、実際すごいと思った」
技術を学ぶため、漆器の本場=石川県の輪島漆芸技術研修所で2年間、基礎を学んだ後、輪島の工房で修業。
1年ほど前に、地元 長崎市で作家としての活動を始めました。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「現代に合わせて発信していくためにはどうしたらいいか。自分らしいというのが長崎らしいにつながる」
歴史を踏まえた上で、新たな "長崎漆器”を作りたいと考えています。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「長崎の材料とか、技術をミックスさせて作品を作っていく」
漆は漆の木からとれる樹液。15年成長すると取れますが、その量は、1本あたりわずか200ミリリットルほど。
貴重な天然塗料です。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「これが湯江和紙ですね、実際、轟の滝の近くですいてるものなんですけど」
和紙に漆を塗ると、強度が増し…
(漆芸作家 大田智宏さん)
「湯江和紙がこうなります」
並べるとアジサイの花に。
県展に入選した作品『波の綾』は、竹と和紙、真珠、螺鈿で波を表現。
長崎市展市長賞の『縮塗り「1200㎞」』。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「漆を厚く塗った場合に起こる縮む過程にすごく力強いイメージがある」
▼能登半島地震発生 修行先も被害
長崎ならではの作品づくりが見え始め、迎えた今年の元日。
漆器の技術を学んだ能登半島を大地震が襲います。輪島は大きな被害を受けました。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「自分が働いてたところが焼かれて。(お世話になった人たちが)無事だというのを確認できただけでもうれしかった」
大田さんは、師匠や仲間たちのためにも制作に力を入れようと決意を新たにしています。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「自分の作品を見て、漆に興味がある人が一人でもいれば、そこから輪島に行きたいという人が一人でもいたらと思って活動している」
▼世界に広がった「長崎漆器」を残していく
長崎漆器の発信と同時に "作品をを残していく"活動も。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「これは"金継ぎ”といって、割れたものをくっつける漆の技術なんですけど」
「直す」の技術も身に着け、世界に広がった"長崎漆器"の修復にも取り組む考えです。
(漆芸作家 大田智宏さん)
「長崎から発信していったものが、今どういう状況になっているのか。修復できるような人材にもなりたいし、長崎漆器というのがあったんだということを発信しながらやっていきたい」
失われた「長崎漆器」の復活へ。令和の時代にその挑戦が始まっています。