【信州の戦後80年】兵士の看護にあたった女学生に「生きろ」と言い遺し 佐久市出身の医師=軍医 小池勇助隊長 最期の地 沖縄の壕を整備 戦争を後世に伝えたい
1年を通してお伝えする信州の戦後80年。
国内で唯一の地上戦が展開された沖縄で、先週、信州と縁のある洞窟が整備されました。
国のために死ぬことがよしとされた時代に、兵士の看護にあたった女学生に「生きろ」と指示した、佐久市出身の医師=軍医の歴史を伝える場所です。
1月30日。沖縄は、信州の初夏を思わせる陽気でした。
阿部守一知事
「ようこそ、すみませんきょうはありがとうございます」
沖縄戦が行われた80年前、暗い洞窟は、負傷兵の病院として使われていました。当時、この病院を率いていたのが佐久市出身の軍医小池勇助隊長です。
この場所を通じて戦争を後世に伝えたい。
小池軍医の故郷、佐久市が壕を見学できるよう整備しこの日お披露目されました。
玉城デニー知事
「戦争の不条理さと残酷さを経験 した沖縄県民は何をおいても命 が大切だという言葉【ぬちどぅ たから】という言葉にその思い を込めています」
佐久市からおよそ1500㎞離れた沖縄本島最南端の糸満市。
大戦末期の1945年3月。アメリカ軍が沖縄本島に上陸。人々が暮らす島が戦場になりました。
当時の沖縄県民59万人のうち犠牲になったのは12万人。日本兵、アメリカ兵を合わせて24万の命がこの島で失われました。
今回整備された「糸洲の壕」は那覇市から車で40分。沖縄にはこうした自然にできた洞窟や鍾乳洞いわゆる「ガマ」がいたるところにあります。
80年前この洞窟は日本軍の「野戦病院」。傷ついた兵士がひっきりなしに運びこまれた場所です。
ここで兵士の手当てをしていたのが女学生。沖縄積徳高等女学校の4年生25人です。17歳から18歳の少女たちはその校章の花をとって「ふじ学徒隊」と呼ばれました。
増え続ける負傷兵の治療が追い付かず、軍の命令で女学生が看護婦として戦争を支えたのです。
故 名城文子さん(2019年取材)
「お国のためにがんばろうってい って言ってねやったのかなあって思ったら本当に情けない、悔しい」
6年前、テレビ信州の取材に当時の経験を語った名城文子さんです。長年に渡って戦争を語り継ぎ、去年亡くなりました。
今では100歳近くになる当時の女学生たち。壕の竣工式には誰の姿もありませんでした。戦後80年が経った、現実です。
「戦争はしちゃいけないね。私もできる範囲のことでなんとか…ね」
糸満の野戦病院で隊長を務めた小池勇助軍医。今は生まれ故郷の佐久市で眠っています。
軍医の兄の孫、小池清志さんがおじのことを語りついでいます。
1890年=明治23年生まれの小池勇助軍医。医師だった母方の叔父を手伝っていたといい自身も医師の道を志し地元で眼科を開業していたといいます。
親戚が診察費を集金した時のこんなエピソードが。
小池清志さん
「あんまり困っている人からはむやみに集金はするなというよ うなことを言われたとまあ、そういう形の中でね。そういう一つの気持ちがね最後の決断になんか影響したん じゃねえかな…と思いますね」
1945年6月23日。現地の司令官牛島満・中将が自決し沖縄の日本軍は玉砕しました。
しかし小池軍医の率いるふじ学徒隊はまだ、洞窟の中。壕を出ればアメリカ兵に捕まり捕虜になる……。
小池清志さん
「当時アメリカの捕虜になるより は自分で腹を切れとかそういう時代ですからねだからそういう形で亡くなった 方がね他の隊では多かったとい うことです」
「ただ、ゆうすけじいはそこで3日間考えて結論を出したよう ですね。かなり苦しんだんじゃねえかな…」
国の為に戦うという任務。一方で命を救うのが医師の役目
悩み抜いた末、小池軍医は少女たちに、捕虜となって「生きるように」と最後の指示を出します。
元ふじ学徒隊 故・名城文子さん
「あんたたちは今までご苦労さん。だからね、今まで元気でいるから絶対死んではいかんよ。そして生き残ったら、お国のために頑張らなくちゃいかん。戦争のあれをみんなに話してくれ、絶対死んではいかん」と
25人の少女が看護婦として戦った「ふじ学徒隊」。解散前にひとり、解散後に銃撃戦に巻き込まれてひとり。そして戦後、戦争体験の重さに耐えられなかった1人、合わせて3人が命を落としました。
ガマに入った長野県の関係者もそこに残る戦争の痕跡を目の当たりにしました。
平和ガイド
「左右にガマが続いています全長数キロぐらいある大きなガマなんですね」
安全に入れるのは5mほど。
少女たちに「生きろ」と言い遺した小池軍医はここから数百m奥で自ら命を絶ちました。
阿部知事
「これから未来に向けて平和な世の中が続いていくこと を心から願っています」
故・名城文子さん
「わたしたちがあんなに苦労してきたのに、その苦労が全然実を結ばなくて、いつまでもこんな(あげさげ)もう少し日本として頑張って早く一日も早くやってくれたらなあと思う。私の苦労がね全然なされてないのかなあと思ったらなさけないなあ」