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【戦後80年】③「母のもとへ返す」…遺骨収集40年の風景

2025年4月3日 6:56
【戦後80年】③「母のもとへ返す」…遺骨収集40年の風景

シリーズ・信州の戦後80年。今夜は沖縄と信州の繋がりを伝える3回目です。

「1376」……この数は沖縄戦で亡くなった長野県出身者の数。現地にある「平和の礎」にその全員の名が刻まれています。多くは日本兵とみられますが正確な人数は分からず、そのほとんどの遺骨は今も信州に戻っていません。

現地で遺骨を探し続ける一人の男性を訪ねました。

沖縄本島最南端の糸満市。畑の中の舗装された道を外れ奥にすすむと…

具志堅隆松さん
「失礼します」

道を外れてすぐの場所にあったのは…

具志堅隆松さん
「これは砲弾の破片」

80年前にアメリカ軍が放ったものだといいます。

具志堅隆松さん
「飛んできて爆発して飛び散った 破片です」

遺骨収集を行う具志堅隆松さん。那覇市生まれの70歳(取材当時)です。

「これは骨これもそう。これ頭蓋骨」この厚みこの湾曲」

戦争で犠牲になったとみられる「誰か」の骨。具志堅さんは以前、この周辺5か所で遺骨を見つけました。

この辺りは、軍と民間人が混在していたといわれる場所。洞窟に避難していた地元住民が日本軍に追い出された可能性もあるといいます。

具志堅隆松さん
「あれは日本軍の壕の入り口です よ。この人たち入れてもらえな かったんだろうかとか子どもの骨もあったんですよ」

沖縄戦終焉の地に建つ平和祈念公園。その中にある国立戦没者墓苑には沖縄戦で犠牲になった身元不明の人たちの遺骨が納められています。

記録されているのは18万人余り。

平和祈念財団 松川満 事務局長
「納骨室が向こう後ろの方に第一納骨室・第二納骨室・第三納骨室ということで後ろの方に骨が納められているところですね」

松川満事務局長
「戦後(生き残った)住民がふるさとに帰ってきて収容所から帰ってきたりあるいは日本本土から帰ってきたりするといっぱいの死んだ人たちを目のあたりにして」

戦後、沖縄の人たちが生活を立て直すためにまず行ったのが遺骨の収集骨だったといいます。

松川満事務局長
「昭和34年に那覇の識名というところに中央納骨所とい う所が作られてそこにいったん 全部移されますけどそこがいっ ぱいになって」

終戦直後の混乱の中、正確な記録が残るはずもなく、何体の遺骨があるのかは分からないと言います。

公園内に建つ「平和の礎」。国籍や出身地を問わず沖縄戦などで犠牲になった全ての人の名前が刻まれています。

長野県出身者名を刻んだ碑。現在、1376人の名前があります。

具志堅さんは、40年以上に渡り遺骨を探し続けています。生まれたのは終戦からほぼ10年後。戦争の痕跡に囲まれて過ごした少年時代。初めて人の骨を見たのは9歳の頃と記憶しています。

具志堅隆松さん
「家の近くが激戦地で山に遊びに いくとまだ鉄兜をかぶった骸骨 があるようなそういうような場 所でした」

「戦没者の遺骨が救済されないま まどんどん時間がたって風化し ていくというふうにそういう状況をまのあたりにして」

遺骨収集のボランティアに携わったのは28歳の時。母の兄はパプアニューギニア領の島で戦死。島は部族闘争が続いているため立ち入れず、遺骨は今も置き去りのままです。

沖縄県内では具志堅さんのようなボランティアが中心となり多くの遺骨を探し出し弔ってきました。

この日訪れたのは糸満市の「束辺名グスク」。グスクとは沖縄の方言で「城跡」のこと。500年以上も前、琉球王国の城があった場所です。

サンゴや貝殻が堆積してできた岩「琉球石灰岩」による小高い丘が沖縄各地にあります。高さは60mほど。戦争中、日本軍はこうした丘のふもとにアメリカ軍の戦車を追い込み攻撃を仕掛けたといいます。

「日本兵のボタンが見つかりまし た」

手榴弾を起爆させるピン輪・アメリカ軍の被弾(銃弾)

険しい道の奥にある巨大な岩。実は洞窟だといいます。80年の間に土砂などが流れ込み入り口を塞いでいました。

かつて、地元住民が逃げ込んでいた洞窟。ここでは2人の子供とみられる遺骨が見つかったといいます。

具志堅隆松さん
「見つかってたのは子どもの頭蓋 骨の一部。それからあと子ども の多分骨盤かなって」

「中で亡くなったまま外から土砂 が入ってきたかな」

「助けてくれって声も上げきれな い、そういう人たちであればなおさらっていうか」

具志堅さんの話にはある怒りが込められていました。

「辺野古の埋め立てに沖縄本島南部の土砂を使うとそういう計 画を打ち出した」

「こうやってまだ戦没者遺骨があるにもかかわらず」

アメリカ軍普天間飛行場の移設計画が進む名護市辺野古。

国は当初、埋め立て用の土砂を主に沖縄県外から調達するとしていましたが沖縄の全域からも採取する計画に変更されました。その中には、今も多くの遺骨が残るとされる沖縄本島南部の土も含まれるといいます。

「少なくともここで眠る人たちっ ていうのは遺族のもとへ帰る権利ありますよ」
「日本中から来て沖縄で亡くなっ ているわけです。沖縄へ日本兵 を派遣したのは政府ですよ」

戦況の悪化とともに避難した沖縄住民を壕から追い出したり泣き止まない乳児を殺したとされる日本軍。

その歴史を知った上で具志堅さんは、住民と日本兵の犠牲者に分け隔てない思いを抱いています。

「その人たちの最後のことば例えば野戦病院で死ぬ間際のうわ言のようなそういう言葉っていうのが天皇 陛下万歳ではなかった、お母さ んお母さんだったという」

「いかに軍隊教育で公民化教育を 受けていてもやはり死ぬ間際の 本当の気持ちというか意識せず に出てくる言葉というのがお母 さんだというのならこの人はお 母さんのもとへ帰りたかったん だろうなって、それであればど うにか返してあげたいなってい うことですかね」

最終更新日:2025年4月14日 5:26
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