「毎日息子のことは忘れない日々」消えることのない心の痛み…遺族30年 松本サリン事件私の30年④【長野】
「松本サリン事件私の30年」4回目は犠牲者の遺族です。
消えることのない心の痛みを抱えながら生きてきました。
静岡県・掛川市。
【次男を亡くした小林房枝さん】
「大事な息子を失って30年ですからね。それは一言では言えないですけどね。毎日息子のことは忘れない日々でしたね」
30年たっても悲しみが癒えることはありません。
小林房枝さん(82)の次男・豊さんは、当時、社会人2年目、松本に長期出張中でした。
「緑がきれい」と町の印象を話していた豊さん。
両親も夏休みに松本へ行くことを楽しみにしていました。
しかし…
1994年6月27日 松本サリン事件。
現場近くのアパートで、豊さんは倒れました。
事件翌日の早朝、「意識不明で危篤」との電話があり小林さんは思いもよらぬ形で夫と松本へ向かいました。
【次男を亡くした小林房枝さん】
「もう着いてからなかなか会うことができなかったんですね。本当に体育館に安置されていたんですけれどもう棺に入っていまして眠っているようでしたね。もう涙も出ませんでした。信じられなくて」
テロ事件により突然、息子を失いました。
【次男を亡くした小林房枝さん】
「息子があういう事件に巻き込まれて、つらい思いのところですよねですから絶対、一生松本にはいけないという思いでいましたね」
一時は、松本という言葉を聞くだけでもうつ状態になったと話す小林さん。
他の遺族や弁護士に背中を押され、再び松本を訪れたのは事件から15年たった2009年のことでした。
【次男を亡くした小林房枝さん】
「15年ぶりです」
「やっと来たなと」
【次男を亡くした小林房枝さん】
「来たくない、来られないという状態だった」
「15年経ってやっと来れたよっていう思い」
Q.この15年をどのような思いで過ごした?
「言葉では言い表せないが、理不尽な事件で息子を奪われた悔しさですね」
小林さんは事件をきっかけに地元・静岡の犯罪被害者支援センターで活動するようになりました。
同じ心の痛みを抱く人たちの支援をするうちに少しずつ自分を取り戻すことができたといいます。
そして、平成最後の夏。
【上川陽子法相(当時)】
「本日、7名の死刑を執行しました」
「過去に例を見ない、そして今後二度と起きてはならない、きわめて凶悪重大な物であり我が国のみならず、諸外国の人々をも、極度の恐怖に陥れ社会を震撼させたものでした」
松本智津夫元死刑囚など松本サリン事件に関与した7人を含むオウム真理教13人の死刑が執行されました。
それまで、裁判を傍聴し、刑の執行を望んできた小林さんでしたが…。
【次男を亡くした小林房枝さん】
「(死刑執行で)なんかわからないんですけれど私動揺したんですよね。胸がドキドキして。表現できないんですけれど今まで被告たちを標的にして憎んできたんですよね。それが一瞬にして標的にするのは何だろうと目標というかそれがなくなったという感じでちょっと複雑な心境でしたね」
月に1度、欠かすことのない墓参り。
命日が近づく頃には毎年、豊さんの友人が缶ビールを供えてくれるといいます。
【次男を亡くした小林房枝さん】
「毎年来てくださる方がいるんですよ三重から豊の大学の同級生で」
「お墓にいつもメッセージを残してくれて」
「今年はやっぱり豊30年だなってメッセージがありましたね」
事件から30年。
豊さんが生きた人生以上に年月が経ちました。
それでも風化させたくない思いは変わりません。
【次男を亡くした小林房枝さん】
「今も(オウムの後継団体は)存続しているわけですよね。それに信者も増えているという連絡も入っているのでやはりこういう事件を起こした集団なんだよということは今の若者にちゃんと知ってほしい」