233人犠牲「明治40年の大水害」各地に残る伝承碑 災害の記憶を今に伝える 山梨県
県内で233人の犠牲者を出した「明治40年の大水害」から21日でちょうど117年が経ちます。県内各地に残され、災害の記憶を今に伝える伝承碑を訪ねました。
国の殖産政策で桑畑の開墾が奨励され、薪や木炭の需要が飛躍的に高まった明治20~30年代。各地で山は荒廃し、水害が相次ぎました。
中でも1907年(明治40年)の8月21日夜から26日にかけて降り続いた台風による記録的大雨は死者233人、全壊家屋1267戸、流出家屋4500戸という未曽有の被害を出します。
荒木キャスター
「当時の惨状を現代に伝える、このような伝承碑が各地に残っています」
山梨市歌田にあるこちらの伝承碑には、「地区の家屋60棟あまりが流出し、肥沃な水田や畑が泥と砂に埋まった」とあります。
また、多いところで2mも土砂が堆積したという笛吹市石和町。こちらの石碑は旧石和村が水害の中心地だったことを伝えています。
一方、718ミリの雨が降ったとの記録が残されている大月市。市内の笹子町では笹子川が大洪水となり、その支流である大鹿川も氾濫しました。災害の記憶を伝えるシンボルとして、その時に流されてきた巨石が残されています。
荒木キャスター
「下半分が雑草に囲まれていますが幅は10mほどあるでしょうか、大きな石があちらに見えます。これほどの石が流されてきたということで、当時の濁流の勢いが感じられます」
当時の記録は大月市の郷土資料館で見ることができます。この水害を契機に、県内では荒廃した山の植林やえん堤の建設などが本格的に始まりました。
災害伝承碑は大変な体験を乗り越えた先人からの時代を超えたメッセージです。