「なかったことにしようという力が働いた」まぼろしの空母「信濃」の最後…95歳元乗務員が明かす真実とは
太平洋戦争中、「武蔵」や「大和」と並ぶ日本海軍の主力艦として建造されながら、その記録がほとんど残っていない、まぼろしの空母がある。その名は「信濃」。出港からわずか17時間で沈没し、1400人あまりが命を落とした事実は当時の日本軍によって「なかったこと」にされた。しかし、おびただしい数の溺死体が海面に浮かぶ悲惨な光景は、79年が経とうとする今も元乗組員の脳裏には鮮明に焼き付いている。95歳になった元乗務員は、怒りを滲ませ、静かに語る。「亡くなった人たちまで歴史から消されてしまった」。
口を閉ざしてきた「真実」 語り始めた男性
「かなり古い話なのでなかなか思い出すのも難しくなっている。私の場合は戦後ほとんど信濃のことに関しては語らなかったので…」。
しっかりとした口調で語ってくれたのは、宮城県仙台市に住む蟻坂四平(ありさか・しへい)さん、95歳。まぼろしの空母「信濃」に乗艦した数少ない生存者の一人だ。蟻坂さんは長年、信濃について口を閉ざしてきた。しかし、10数年前から少しずつ当時のことを語り始めた。
「信濃の歴史には戦争の悲惨さや不条理さなど戦争の真実がある」。
戦争を知らない世代に、戦争がもたらすものを伝える責務があると感じたからだ。
16歳の通信兵が乗り込んだ巨大艦…実は未完成
農家の4男だった蟻坂さんは、戦時中の軍国主義に影響され、14歳の時に少年兵に志願した。そして、モールス信号などを学んだ後、16歳の時に通信兵として信濃に乗艦した。信濃の全長は270メートル、幅40メートルもあり、当時は世界最大の空母と言われた。かつてない巨大な船とともに戦地に赴くにあたり、蟻坂さんの気持ちは高ぶった。
「船はものすごく大きかった。迷ったらどこに行ったら上に出られるのかわからないくらい。みんな『この船は沈まない不沈艦だ』と言っていた。私もこんなでかい船が沈むことはないだろうと本当に思っていた」。
信濃の建造は、太平洋戦争直前の1940年に横須賀で始まったが、当初は「武蔵」や「大和」と同じ「戦艦」として建造されていた。しかし、信濃は急遽「空母」に造り変えられたという。1942年の太平洋戦争の転換点となったミッドウェー海戦で日本軍は主力空母の多くを失ってしまったことが背景にある。そのため、突貫工事で建造された信濃は出港時、実は未完成の状態だった。
その年の11月下旬の正午過ぎ。信濃は横須賀港に停泊する軍艦から見送られ太平洋へ出港した。
沈んだ信濃 海に浮かぶおびただしい死体
蟻坂さんは信濃の船体の下の方にある第二通信室にいた。出港からおよそ8時間が経ったころだった。
「大きな衝撃があった。続けてバンバンときたので一緒にいた下士官がすぐに『雷撃だ!』と叫んだ」。
米軍の潜水艦から発射された魚雷だった。4発が信濃に命中し、船体に穴が開き、海水が流れ込んできたという。すると、次第に船が傾き始めた。その傾きはどんどんと大きくなる。危険を察知した蟻坂さんは、仲間と共に船の上部にある甲板に向けて急いだ。すると、船の中を走る自分の足音とは違う音が、足元から聞こえてきた。蟻坂さんは、ハッとし、息をのんだという。
「下から天井を叩く音が聞こえた。防水用のハッチが閉まって閉じ込められた作業員が泳ぎながら天井を叩いていた。その時初めて死の恐怖を感じた」。
蟻坂さんは、手すりに掴まりながらなんとか甲板に出ることができた。しかし、寒さと恐怖で震えが止まらなかった。周りの海を見渡すと、数隻の船が救助に来ているのが分かった。船員たちは「逃げろー!」と大きく叫んでいた。蟻坂さんは、その声に押されるように、思い切って海に飛び込んだ。しかし、救助の船はすぐそばまで近づくことはなかった。そして、船員たちは続けてこう叫んでいた。「遠くに逃げろー!」。
「大きな船が沈むときに、近くにある船も人も吸い込まれて、沈んでしまうから…」。
そして、数分後、信濃の船体は海面に対して、直角に立ち上がって沈んだ。
その時に見た、おびただしい数の仲間の溺死体が海面に浮かぶ悲惨な光景がずっと頭から離れないという。
蟻坂さんは、極寒の海を3時間もの間、泳ぎ続け、救助に来た別の船に助けられ九死に一生を得た。蟻坂さんは、海へ飛び込む際に下士官から言われた言葉が忘れられない。
「『船が沈むときは絶対後ろを見ないで泳げ』と言われた。なぜなら後ろから泳げない人が足を掴んでくるから。その時は後ろを見ないで蹴っ飛ばせと。2人死ぬより1人でも生きるほうがいいから」。
「なかったこと」にされた信濃沈没の事実
蟻坂さんを含む約1000人が一命を取り留めたが、分かっているだけでも1400人あまりが命を落としたという。膨大な予算をかけて建造した空母が、何の戦果も上げないまま、無数の尊い命と共に海へ消え去った。蟻坂さんたちは、その後、広島県の離れ小島に移送された。そして、軍の幹部から、今回の事件について、さらには信濃の存在についても「他言してはならない」と厳しく命じられたという。そもそも信濃は秘密裏に建造され、秘密裏に出港しており、その存在を知る人は多くはなかった。命令が下った理由について、蟻坂さんは険しい表情で言及した。
「信濃だけは戦争で何もしていないから。何もしないで沈んでいるので海軍上層部にすれば恥部。『なかったこと』にしようという力が働いた。信濃がまぼろしの空母となってしまった要因がそこにある。本当に何人死んだかというのは誰もわからなくなってしまった」。
軍国主義の中で育った少年がぶちあたった、戦争がもたらす卑劣な現実だった。犠牲者を弔うどころか、その事実すら歴史から消そうとしたことに、蟻坂さんは大きな怒りを抱いている。ただ、蟻坂さんは、ずっとこのことを言えずに生きてきたという。
死ぬまで語る「絶対に戦争はしてはいけない
終戦後、蟻坂さんは故郷の宮城県に戻り、身に付けた通信技術を生かし逓信省や電電公社などに勤めた。物資がない日本で生活するだけでも苦労の連続だったが、戦後の復興は少しずつ進み、高度経済成長期などを経て、日本も豊かさを手に入れるようになる。しかし、蟻坂さんにはずっと心のとげが刺さったままだった。そして、10数年前、信濃でのことを自らの言葉で語り始めた。
「ずっと脳裏から離れないものが信濃での体験だった。亡くなった仲間たち、そして信濃の歴史をまぼろしのままにしてはいけない。まさに不条理というべきことだと思います。一番悪いのは亡くなった人たちまで歴史から消されてしまったのだから」。
蟻坂さんは時間の許す限りメディアなどを通して、自分の体験を詳細に語る活動を今も続けている。そして、最後に強い口調でこう訴えている。
「体験していない人が戦争について考えることは難しいことだと思うが、戦争は絶対にやってはいけない。罪のない、関係のない人も殺してしまうから」。
信濃や戦争の体験について語れるのも「あと数年かな」と、柔和な笑み浮かべた。蟻坂さんは、この8月で96歳となる。