「つなぐヒロシマ」原爆資料館元館長・原田浩さん(85) 生死もわからぬ人を踏み分けて逃げた記憶
読売新聞と共同で被爆者の証言を記録している「つなぐヒロシマ」。
19日は、原爆資料館の館長として海外や国内の要人たちに被爆の惨状を伝えてきた男性です。
広島市安佐南区に住む原田浩さん、85歳。当時6歳だった原田さんは疎開するために向かった広島駅で父親と共に被爆しました。
■原田浩さん
「そこで、熱戦と爆風を受けました。駅舎の陰におりましたので奇跡的に助かった」
爆風で崩れ落ちてきた屋根から父親が体を張って守ってくれたため、ほぼ無傷だったといいます。
■原田浩さん
「父が四つん這いになって上にかぶさってくれた。ですから、父は非常に大きな背中に傷を受けてますけど。もう父は恩人としか言いようがないですけどね」
父親に手を引かれて逃げるとき、生死もわからない人たちを踏み分けて進みました。忘れられない記憶です。
■原田浩さん
「内臓が破裂したような人の上を踏んだらね、足がね、体の中に入るんですよ。皮膚がないから、次の人の上をまたいで行かなきゃいけない。だからどれだけの人を私がね、踏んだのかわからないけれども・・。そういう形のものは(そういうことは)、やっぱりもうあってはならんということに繋がりますよね。もうそれに尽きると思います」
その後、広島市の職員となった原田さんは、1993年から4年間、原爆資料館の館長を務めました。
「過去に目を閉ざす者は現在にも盲目となる」との演説で知られる、ドイツのワイツゼッカー元大統領など、およそ150か国の要人を案内しました。
■原田浩さん
「だからそれほど多くの方が、広島の思いというものを共有したいという気持ちを持ってらっしゃる。そこのところは大事にしなきゃいかんと」
1995年には、当時の天皇、皇后両陛下を案内しました。その際、原爆が投下された時のことを尋ねられ、被爆者であることを伝えると…
■原田浩さん
「そうしたら、天皇陛下も皇后陛下も、顔色がガラッと変わりました。というのはそこまではやっぱり、 館長として、展示の解説をする役割だと思っておられたでしょうから、それがいきなり被爆者に変わってくるわけだから、ものすごい、これやっぱり大きなとまどいがあったと思うんですね。天皇皇后両陛下の視線が、目に刺さるような、ひどい真剣になりました。『その体験はまだしっかり聞きたい』とおっしゃったんだけど、もちろん時間の関係もあるんで、途中でね、終わることしかできなかったんですが、それ(私が語った体験・思い)を今度は、天皇皇后両陛下は、持ってお帰りになったんだと思いますよ」
被爆から79年・・・核兵器が再び使われるかもしれない恐怖が世界に広がる中、日本被団協に決まったノーベル平和賞。原田さんもその重みを感じています。
■原田浩さん
「今回の受賞をしたことによって、 とりわけやっぱり被爆者の人にとっては、肩の荷がずっと重くなったんじゃないかと思います。うかつに喜んどるわけにはいかないんでね。喜んだからといって、核兵器がなくなるわけじゃないんだから。今までまでの悲惨な体験をしっかりと伝えるという努力は今まで以上にしっかりとやっていかなきゃいけないと思います」
原田さんをはじめ、被爆者に残された時間は長くはありません。自らの体験を語り続けるのは、伝え続けなければならないという強い思いです。
■原田浩さん
「繰り返して言うようですがやっぱり悲惨な体験というのはこうなんだと。そのことが自分の頭上で炸裂したらどうなるのか。自らの体験として受け止めていただきたいと。そして行動できる分は、 行動してほしいという、極めて強い願いを持っているということだと思います」
【2024年11月19日放送】