キリシタンに「邪宗」の文字も 200年以上前の"天草崩れ"新資料を発見
200年以上前の天草の「潜伏キリシタン」。資料が新たに発見されました。
■熊本大学大学院・安高啓明准教授
「天草とキリシタンの関係というのは島原・天草一揆以降も延々と続いて、実際当時の人(庄屋たち)は潜伏キリシタンをどう思っていたのかということを今回の資料から明らかにできるのでは」
天草市の天草ロザリオ館が保管している「上田家文書」。その中から新たに発見されたのは、200年あまり昔に起こった「天草崩れ」の後に書かれた潜伏キリシタンに関する文書30点です。
「天草崩れ」とは、キリスト教の信仰が禁止されていた1805年。天草のキリシタン5200人あまりが検挙された出来事です。
今回の文書をよく見ると「邪宗」という文字が。現在の天草市河浦町にあたる今富村の庄屋、上田演五右衛門が潜伏キリシタンを「邪宗」と表現していたもので当時の庄屋による支配形態などが読み取れます。また資料によると天草崩れの6年後の1811年、踏み絵を強いられた潜伏キリシタンなど庄屋の支配に反発した住民たちが演五右衛門の罷免を要求。演五右衛門は3年後に庄屋を辞任したということです。
■熊本大学大学院・安高啓明准教授
「庄屋たちの現場レベルでは確実に「邪宗」として認識している。彼らは異宗ではなくキリシタンだと思っていたことを裏付ける資料」
安高啓明准教授は「天草崩れ後の混とんとした社会状況が読み取れる、歴史的景観を示す資料」と分析しています。