地震で酒蔵が2度目の倒壊 父の遺志継ぐ若き杜氏 瓦礫に埋まった酒米に「希望」
中島遼太郎さん(35)は石川県・輪島市で明治時代から続く酒蔵「中島酒造店」の8代目だ。
元日の能登半島地震発生当時、この場所で震度7の揺れに見舞われ命からがら逃げだした。幸いにも中にいた家族は全員無事だった。しかし何十年も前から受け継がれた酒蔵や併設された店舗などほとんどが瓦礫 の下敷きとなり生活の基盤を失った。
「先祖代々、ここで…」
遼太郎さんは嗚咽交じりに言葉を詰まらせる。
地域に根差した酒蔵の若き杜氏にとって一時は全て失われたかのように思われた元日の地震。それでも、全国各地から集まったボランティアと共に救い出した酒米が、一筋の希望の光となって遼太郎さんを照らす。
【酒蔵が救った命】
遼太郎さんは元日、酒蔵に併設された自宅で母、姉夫婦と正月休みを過ごしていた。
突如緊急地震速報の警告音が鳴り響く。皆で真っ先に向かったのは唯一耐震化工事されていた酒蔵だった。揺れが収まったかと思われたその時、再び大きな地震が襲う。地面ごと揺さぶられるほどの大きな揺れに立っていられない。震度7の地震だった。しばらくして外に出ると大量の土煙と共に倒壊した建物が一面に広がる。皆で避難した酒蔵を残し、ほかの蔵や店舗、自宅のすべてが瓦礫と化していた。
【2度の被災と亡き父の思い】
1月4日、大地震から3日が経った。少しでも無事なものはないかと瓦礫をあさる毎日…。母や姉は市外に避難するも、遼太郎さんだけは倒壊を免れたわずか10畳ばかりの酒蔵に残り、一角に段ボールベッドを作って生活していた。遼太郎さんにはこの場所を離れられない理由があった。亡き父と今の自分を重ねていたのだ。
石川県輪島市は2007年、今から17年前にも震度6強の揺れに見舞われた。
当時、中島酒造店を切り盛りしていたのは遼太郎さんの父・浩司さんだ。当時も酒蔵は倒壊し無残な姿に。しかし、それでも浩司さんは酒を造り続けようと数千万円の借金を抱え酒蔵の修復、再建を目指していた。当時の震災からわずか1年後には復興酒第一号が完成して、年月を重ねるごとに経営は再び軌道に乗りはじめた。その奮闘する父の背中を見ていたのが、当時高校を卒業して間もない遼太郎さんだった。
「もともと、継ぐつもりはなかったです。あれ(地震)がなければおそらく継いでないですよ」
右も左もわからないまま父の元で、時には県外の酒蔵へ赴き酒造りを学ぶ毎日。店を継ぐことが決まり、遼太郎さんが蔵入りしてからわずか10カ月後、父・浩司さんがこの世を去った。60歳の若さだった。
父の遺志を継ぎ、ここまで店を守り抜いてきた。
店を託されてから約10年、今年の大地震が再び中島酒造店の前に大きく立ちはだかった。
【再建へ光一筋~ボランティアとの出会い~】
1月8日。元日の地震から7日後、中島酒造店の辺り一帯に重機の音が響き渡っていた。遼太郎さんが暮らす酒蔵の一角を訪れると、遼太郎さんとヘルメットをかぶった数人が段ボールベッドに腰をかけ鍋をつついていた。土埃に交じって優しいだしの香りが広がっていた。集まっていたのは日本全国から来た重機を専門に扱うボランティアの人たちだった。余震もやまない輪島市の中心部で、ひとりで暮らす遼太郎さんを気にかけ生活を共にしていたのだ。日がたつごとに徐々に段ボールベッドは増え、いつの間にかボランティアが立ち代わりで泊まれる拠点となっていった。朝には共に撤去作業を行い、夜には、この酒蔵で語り合う。そんな毎日。遼太郎さんにとっては何よりの心の支えだったという。久しぶりに笑顔が見えた。
【再建へ光一筋~失われた酒米~】
1月17日、遼太郎さんの元に思いがけない吉報が飛び込んでくる。下敷きになった酒米が見つかったのだという。日本酒は酒米ときれいな水から作られる。遼太郎さんにとってまさに希望の光だった。
案内されるまま瓦礫の下を覗いてみると確かに茶色い米袋がいくつも見えた。しかし米袋の上にはいくつもの柱が折り重なるように覆いかぶさり、とても取り出せるようには見えない。
「ジャッキかませれば行けるか」
「クレーン持ってきて」
ボランティアである重機のスペシャリストたちが奮闘していた。遼太郎さんも不安そうな目で見守る。
作業開始から5時間近く。
「出た、出た」
抱えるのがようやくといった大きな米袋が姿を現した。周辺の瓦礫は取り除かれ、バケツリレーの要領で次々と米袋が運ばれていく。
袋が破れたもの、ガラス片が突き刺さったままのものもあったが、遼太郎さんがひとつひとつ確認していく。酒米を少し手に取ると目には涙が浮かんだ。
「きれいですよね。ようやく父の気持ちが分かったというか…」
光が差した瞬間だった。
【ふるさと離れ、再び酒造りを】
2月、瓦礫の下から取り出した米袋が次々とトラックに積まれていた。
石川県の酒造組合連合会が県内各地の酒蔵に協力を仰いだのだ。中島酒造店を含む奥能登で被災した8つの酒造はそれぞれ他の蔵と協力して酒造りを行うことに。
遼太郎さんに声をかけてくれたのは同じく石川県小松市で160年の歴史を持つ老舗「東酒造」だ。
「私らにできることは酒造りだけなので。遼太郎くんらしいお酒を作ってほしいな」
社長の東祐輔さんも背中を押す。
救出した酒米と共に輪島市から100キロ以上離れた小松の地へ向かった遼太郎さん。酒造りの間2~3か月は泊まり込みの作業となる。共に生活してきたボランティアともしばしの別れだ。蔵も設備も住む場所も、すべてが異なる環境で遼太郎さんの挑戦が始まった。
【復興酒一号完成】
杜氏の朝は早く、早朝7時前には作業が始まる。
お米を洗い、味の決め手となる麹造りへ、ホワイトボードにはビッシリと数値データが記されており、温度の管理も徹底されている。
東社長によると、遼太郎さんはお酒の状態を気にするあまり深夜に作業を始めることもあるという。
「酒造りの時期は基本こうなんですよ。気になって仕方ない」
様々な工程を経て1か月後。あの酒米は日本酒を絞る前段階の「もろみ」になった。
蔵中に甘いお酒の香りが広がる。遼太郎さんはタンクの中いっぱいに入ったもろみをかき混ぜながら笑顔でこう話す。
「あと1か月もせずにお酒出来ちゃう。どうしよう」
そして3月下旬。初しぼりの日を迎えた。タンクに注がれる透き通った日本酒を遼太郎さんはそっと口に含みかみしめる。中島酒造店が受け継いできた銘柄「能登末廣」の純米酒が完成した。目には涙が浮かんでいた。
【再建への道、閉ざされたまま】
遼太郎さんには完成した日本酒を真っ先に飲んでほしい人たちがいた。生活を共にしてきた重機ボランティアの人たちだ。
数か月ぶりの輪島へ。
「おかえり、おめでとう」
ありあわせの食材で作った手作りの料理を用意して出迎えてくれた。
遼太郎さんもできたてのお酒をふるまう。
「前の光景が、思い浮かぶね」
一口飲むと皆の目からは涙があふれだす。
みるみる広がった支援の輪によって醸され、届けることができたこの復興酒。中島酒造店の再建へ向け第一歩になるかと思われたが、程遠い現状があった。
「できるならここでやりたいけどまだイメージはできない」
遼太郎さんは、輪島の変わらぬ現状を目の当たりにして言葉を失い、再建について多くを語ることはできなかった。ライフラインも満足に復旧せず、人はどんどん離れていく。
「どこで何をやればいいのか」
「見通しが立たない…」
久しぶりに帰った輪島を見つめる遼太郎さんに笑顔はなかった。17年前の地震で負った借金もまだ残っているという。
能登の酒は能登の地で育まれ息づいてきた。地元の人に愛され、祭りの神事にも欠かすことはできない。できることならこの地で大好きな酒造りを…。
いつの日か、遼太郎さんが亡き父のように中島酒造店を復活させるその日を願ってやまない。
現在、能登地域で被災した8つの酒蔵の内、自分の蔵で酒造りを始めることができたのは1社のみ。中島酒造を始めほかの蔵は今も地元を離れ、金沢や小松、白山など無事だった酒蔵の助けを借りて、酒造りを続けている。
地震が発生した元日は 初詣の取材をしていた。その日のオンエアを終え、帰宅しようと準備をしていたまさにその時に地震は起きた。警報音が鳴り響き報道フロアも大きく揺さぶられた。入社1年目で経験したこの出来事は生涯忘れることはないと、そう思った。
この取材の発意は、地震後初めて私が被災地(輪島市)で取材していた時のことだった。避難所となっていたハローワークで住民の方々と話しをする中で遼太郎さんの話が上がった。
「あそこの酒蔵も潰れている…」
住民の話を頼りに、中島酒造店があった場所に着くとそこには大量の瓦礫が広がっていただけだった。瓦礫をかき分け中に進むと酒造の一角に遼太郎さんがいた。最初は笑顔で取材に答えていた遼太郎さんだったが次第に目は涙で潤んでいった。
目の前の絶望的な状況に私は取材する立場にもかかわらず何を聞いたらいいのか、言葉が詰まった。
発災以降、約4か月にわたり追い続けてきたが、常に遼太郎さんの中には葛藤があったのではないかと思う。遼太郎さんは店の再建に関して多くを語らない。それはひとりの経営者として輪島のこの先に不安を抱いていたからではないかと思う。
今もほとんど毎日、被災地での取材を続けているが目に見える変化は少ない。仮設住宅の建設が進んでも瓦礫や波打つ道路はあの時のままだ。
この先、中島酒造店が輪島がそして能登が、復興したと言える日まで取材を続けていきたいと思う。
※この記事は、テレビ金沢とYahoo!ニュースによる共同連携企画です。