異国での震災…孤立する外国人被災者 当たり前の情報が届かない人達に「顔の見える支援」を
地震で被災した人たちの中には様々な理由で支援の手が届きにくい人たちがいます。
能登の漁業を支える外国人技能実習生たち。
彼らが置かれた現状を取材しました。
「どこに向かって走る?」「避難所はどこ?」
サイレンが鳴り響く中、逃げ惑うのは、珠洲市蛸島町で暮らすインドネシア人技能実習生たち。
地震発生直後、港近くの寮には16人がいて高台を目指しますが…。
方向がわからないのかひどく混乱している様子が伺えます。
「言葉は分からなくても、パニックの様子はすごい伝わりましたね。」
インドネシア出身で金沢市に住むヒクマさんと夫の松井 誠志さん。
被災した技能実習生への支援活動を行っています。
ヒクマさん:
「実はこれ、動画見るたびにちょっと泣きそうなんです。あの、なんていう、もし自分が今、私が日本語分かるからいいんですけど日本語分からない人だったらどれだけパニックですか」
松井さん :
「どこに行けばいいかっていうのは多分そこまで知らされていないのかなというのがあって」
最大震度7の大きな揺れに見舞われた能登半島。
そこには、多くの在留外国人が暮らしています。
県内で暮らす在留外国人の数は去年6月末時点で過去最多の1万8000人あまり。
在留資格別では「技能実習」が最も多く、特に被害の大きい能登半島の6つの市町には合わせて600人以上がいたと見られています。
ヒクマさんたちが所属する野々市市のNPO法人。
地震の翌日からインターネット上で多言語での相談窓口を開きました。
NPO法人YOU-I 山田 和夫代表理事:
「まず水、食べ物、そういったものがない。どこに取りに行けばいいのかという相談が非常に多い」
SNSでの問い合わせも含め、1日におよそ30件の相談が寄せられたといいます。
山田さん:
「日本人が手に入れられる当たり前の情報が日本語が不十分で働いている方が非常に多くて伝わらない」「いわゆる外国人の皆さんが孤立しているっていうのは物理的に孤立しているだけでなくて、情報の孤立をしているっていうのを感じられました」
この団体では、在留外国人のネットワークで孤立する外国人被災者を支援する一方で、個別に物資を届けることを模索。
今回、奥能登へは、ヒクマさんたちが運ぶことになりました。
地震から2週間。
金沢市にある技能実習生の寮には奥能登に暮らすインドネシア人向けの物資が届けられていました。
ヒクマさん:
「これはシリアル」「生姜も入っているので体が温まります。」
鶏肉やシリアルなどイスラム教を信仰する彼らが安心して食べられるハラルフードです。
地震の時、金沢に滞在していた技能実習生3人を乗せて午前5時、珠洲に向けて、出発。
奥能登に向かう道路では、崩落や家屋の倒壊が至る所で見られます。
金沢から4時間かけて到着したのは、スルメイカ漁が盛んな能登町・小木港。
技能実習生たちの寮では28人が断水が続くなか生活しています。
地域の避難所に一時、身を寄せましたが長期化するなかで、寮に戻ることを決めたといいます。
(来日2年目)ファデルさん:
「安心しましたヒクマの顔を見たら支援が届く」
先行きが見えないなか、“顔の見える支援”が安心感につながっていました。
小木を出発して、さらに、1時間。
支援物資を乗せ、ヒクマさんたちは16人の技能実習生が待つ、珠洲市蛸島町へ。
彼らとは地震の5日後に最初の物資を届けて以来、およそ1週間ぶりの再会です。
地震の直後、避難の様子を撮影したドゥイキさん。
当時の混乱について。
ドゥイキさん:
「津波が来ることはわかっていました。でも実際に高台に登るには家が倒れていてどこを通ればよいかわからなかった。」
混乱する彼らに道を教えてくれたのは偶然、居合わせた地域の人だったといいます。
地震当日、高台で一晩を明かしたという技能実習生たち。
その後は、避難所で食料をもらうなどして停電や断水が続く寮での生活を続けてきました。
シャイフル・フンクルさん:
「珠洲は景色もいいし人もいいし、優しくて仕事も順調だった。」「地震のない町になってほしい」
地震から1か月あまり。
能登町・小木港の技能実習生たちを訪ねると…。
道路環境が改善し、物資は届きやすくなりましたが寮では、依然として断水が続くなかでの生活です。
それでも。
ファデルさん:
「(地震は)怖かったです。怖いです(記者:でも、帰りたくない?)帰りたくないです。日本で生きたい。仕事したい。」
人口が減少する中で、地域の働き手としての役割を担う在留外国人たち。
災害時に取り残さないよう迅速な支援が求められています。