震災で亡くなった子どもたちへ「550の青い鯉のぼり」追悼そして未来へ 全国から支援<宮城・東松島>
<伊藤健人さん>
「炊き出しの支援ということで石川県の小学校に入らせてもらって、カレーの炊き出しとか行ったんですけど。震災の時とつながる景色だったので、珠洲とか特に沿岸部は津波で1階が抜かれてしまった場所というのは、人もいなくてすごく辛くはなりましたよね。未来に対する希望は出てくるからというのは、言葉ではなかなか僕も伝えられなかったので、鯉のぼりに思いを託してもらえればと思っていました」
【2011年・東日本大震災 見つけた青い鯉のぼり】
<震災2か月後の健人さん(当時18)>
「最初はまあ、飲み込めなかったというか。そういうのがあってやっぱり4人が亡くなるっていうのは一生に一度経験するかどうかのことなので」
津波は家族4人。母親と祖父母、そして当時5歳だった弟・律くんの命を奪い去った。震災から2か月もたたない2011年5月5日こどもの日。健人さんはガレキの中から見つけた律くんの鯉のぼりを津波で全壊してしまった自宅の前に掲げた。そして、天国へ届くように。律くんと一緒に叩いた思い出の和太鼓を叩いた。
<伊藤健人さん>
「気持ちの面では言葉には出せないんですけど、音として何か伝えられるものがあったんじゃないかなと思います」
【支え合う家族を襲う…弟をバイク事故で亡くす】
震災後、健人さんは父・伸也さん、そしてもう一人の弟である広夢さんと支えあって生きてきた。しかし、震災から9年後の2020年。弟の広夢さんはバイクの事故で23歳の若さで亡くなった。5人の家族を失った健人さん。
<伊藤健人さん>
「今は父と2人家族。5人遺影並べるって。いやー本当に…。何とも言えないですね。本当」
ずっと続けてきた青い鯉のぼりの活動。新型コロナの影響で規模を縮小せざる得ない年もあった。
<伊藤健人さん>
「着々と準備進めてたけれども新型コロナウイルスですね。感染者に一喜一憂する日々があった中で」
この年は1m以下の小さな鯉のぼり約70匹を掲げて、全国から励ましてくれる人々の思いを形にした。
【新たな人生の節目 選んだ場所は青い鯉のぼりの下で】
いま、健人さんは東松島市の職員として働いている。そして、人生を共に歩んでいこうと思える人に出会った。それは石巻市出身の里奈さん。秋に予定する結婚式に向けて、前撮りの場所に選んだのは青い鯉のぼりの下だった。
<健人さんの妻・里奈さん>
「こういう節目には撮っておきたいと、私の意見もあったので」
幸せそうな2人を見守るのは父の伸也さん。
<健人さんの父・伸也さん>
「ようやく一安心ですね。ここまで長かったけど最高の日ですね、本当に。いつも通りこのままずっと毎日笑っていけるような家族作ってもらえれば良いなと思ってます。やはりね」
<伊藤健人さん>
「幸せだなと思いました。いまこうやって一緒にいられることが幸せ」
【空を飛んでるみたい 子どもたちに届ける青い鯉のぼり】
ことし、こどもの日には大曲浜地区に多くの子どもたちが集まった。みんなで力を合わせて大空に掲げた青い鯉のぼり。その数は550匹。
<参加した子どもたち>
「空を飛んでるみたい」
そこに、太鼓をたたく健人さんの姿があった。わずか5歳で亡くなってしまった弟の律くん。13年が経っても変わることのない思いがある。
<伊藤健人さん>
「きょうも自分の弟に対する思い込めた鯉のぼりあげてるんですけれども、亡くなった子供たちがここに遊びに来てくれるような場所であってほしいし、そこに今を生きている人たちも、一緒に遊べるような空間であってほしいなと思っています」
2000人ものが集まり、青空を悠々と泳ぐ鯉のぼりを見上げた5月5日。その姿は天国にいる子どもたちからも見えたかもしれない。