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旧海軍航空基地の防空壕を初公開「何のために…」新たに見つかった“謎の部屋” 戦後は東大の実験フィールドに

2024年5月25日 19:45
旧海軍航空基地の防空壕を初公開「何のために…」新たに見つかった“謎の部屋” 戦後は東大の実験フィールドに
北吉田馬場遺跡の防空壕

松山空港にほど近い県道沿いの山の麓に、2つの奇妙な穴が開いています。

その正体は旧松山海軍航空基地の防空壕2基です。1基は長さ6m50㎝、高さ2m50cmの短い防空壕。もう1基はコの字型で長さ約90m、高さ2m50cmの長い防空壕。いずれも1944年4月以降の建造と推定されています。

この度、報道関係者向けに2基の防空壕が初公開されました。

現在、国が進めている松山外環状道路の空港への延長工事の区間と防空壕が重なっているため、工事を前に4月から2か月間にわたって愛媛県埋蔵文化財センターが発掘調査を行ったのです。

すると、防空壕がある小高い山の上部に、新たに海軍関係の施設とみられる“謎のコンクリート製の部屋”も発見されました。担当者も「非常に珍しい」と唸った今回の調査結果とは。

(南海放送 植田竜一)

壁に書かれた“3文字” 良好な保存状態

「ここの壁に文字が書かれています。3文字ですが、1文字目が読めません」

防空壕の内部を案内してくれた県埋蔵文化財センターの藤本清志さんが立ち止まります。

「ただ、この防空壕の工事を請け負ったのが銭高組という企業だと聞いています。2文字目が『高』、3文字目が『組』と読めますので、1文字目が銭の旧字『錢』の可能性がある」

しかしこの3文字について、何のために書いたのか、戦中戦後のいつ書かれたのか、謎に包まれたままといいます。

「天井部分を見てください」

藤本さんの案内に従って上を見てみると細長い長方形の跡が見えます。これはコンクリートを固める際に使った木の板によるものだということで、当時どのようにアーチを作っていたかが分かるということ。

「全体的には保存状態は良いと言えます。ただ、こちらの部分は戦後に手を加えられています」

そこには壁が塗り替えられていたり、電気機器とみられるものが設置された跡が。

“遺跡を勝手に改造するとは…誰かによるいたずらか⁉”

そうではなく、昭和31年頃に東京大学地震研究所がこの防空壕を訪問。一定期間にわたり地震研究のためのデータ収集をしていたとする記録・論文が残っているようです。

土の下から新たに見つかった部屋

木々を搔き分けながら防空壕がある小高い山を5分ほど登ると、40㎡にも満たないほどの広場があります。

「これまでもコンクリート製の構造物があるのは分かっていましたが、それが何なのかは分かっていなかった」

調査前、広場には少しだけむき出しになっていた2つの構造物以外に、あったのは土や木々だけ。ただ、1か所だけ不可解に土が“へこんだ”部分がありました。

「もしかして何かこの下にあるのかも…」

職員らの違和感をもとに業者と掘削作業を開始。土を1mから2mほど掘ってみると、新たなコンクリート製の天井のようなものに到達したのです。

そこで、すでに見つかっていた2つの構造物の土も掘り進めてみると、地下室につながる入口を発見。

「新たに見つかった天井は地下室の天井で、この2つの構造物は地下室への出入口だったと考えられます」

専門家にも意見を仰ぐと、地下室のコンクリートの造りが防空壕よりも丁寧で、資料と照らし合わせるとおそらく通信室か指揮所のような使われ方をしていたのではないかということ。

広大な敷地な上、軍事施設であり詳細な資料も多く残っていない松山海軍航空基地。調査によりその全容を解明する一助となる地下室が新発見されたのです。

この遺跡をどうしていくのかは未定

県埋蔵文化財センターの藤本さんは「県内の戦争遺跡の調査事例も少なく、これらの調査データは貴重なもの」と話します。成果は6月にも近所の公民館で報告会を開いて、市民に共有する予定です。

しかし、もともとは松山外環状道路の予定路線と重なるため調査された遺跡です。これらをどのように保存していくのか、または保存しないのかは工事実施事業者が決定することですがおそらく未定とのこと。

1945年5月に松山海軍航空基地が空襲を受けた際も、これらの防空壕に弾薬などの資材や軍関係者はもちろん、付近の市民も一緒に逃げ込んだ可能性も否定できないということ。

太平洋戦争が徐々に遠くなっていく中、遺跡が果たす役割はいったい何なのか。私たちが考えるきっかけになるはずです。