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【特集】 米軍に1隻で応戦 市街地への空襲を食い止めた「宇品丸」 語り継がれる記憶 《新潟》

2024年8月25日 17:44
【特集】 米軍に1隻で応戦 市街地への空襲を食い止めた「宇品丸」 語り継がれる記憶 《新潟》

終戦直前の新潟港で米軍16機に1隻で応戦し、被害を食い止めた軍用船「宇品丸」。
証言や史料をもとに語り継がれる記憶です。

■防毒マスクをつける女生徒も

防毒マスクをつける女生徒、消火訓練に励む人たち。
空襲から身を守るため自ら防空壕を作る人もいました。

新潟市歴史博物館が所蔵する写真からは、戦時下の緊張感が伝わってきます。

■新潟市は港周辺の空襲で47人が犠牲

1945年8月10日、新潟市は港周辺に空襲を受け、47人が犠牲となりました。
この日について、新潟市史にはこう記されています。

<新潟市史より>
「グラマンF6F一六機が、午前十一時四十五分ころ、曇り空の新潟市に上空に現れた」
「ロケット弾を発射し、機銃を掃射した」
「わずか15分間の攻撃であったが、新潟市民は大きな衝撃を受けた」

米軍の戦闘機16機にたった1隻で応戦したのが、陸軍の軍用船「宇品丸」でした。

■宇品丸が応戦

「宇品丸」は食料の輸送中、新潟港近くで触雷。
沈没を避けるため、新潟港に入港していたところ、アメリカ軍の戦闘機が現れたのです。
攻撃目標は飛行場の石油タンクだったとされますが、宇品丸は1隻で交戦。

この戦いで宇品丸は兵員16人と船員3人、計19人が死亡。
しかし、「宇品丸」の応戦により、市街地への攻撃が食い止められたとされます。

■経験者の証言や史料で記憶をつなぐ

シティガイドの渡辺博さん(80)が語ります。

【渡辺博さん】
「宇品丸が応戦してくれたからヘルキャット(戦闘機)は弾薬を使い果たした。その意味では新潟市を守ってくれた。応戦しなければ、市街地でもっと大きな被害があったかもしれない」

高齢化により、戦争を知る世代が減る中、経験者の証言や史料などをもとに宇品丸の記憶は繋がれています。

■空襲経験者は

その証言者のひとりが、シティガイドの相田敏之介さん(92)。
相田さんは中学生の時に空襲を経験しました。

【相田敏之介さん】
「空襲警報が鳴り、押し入れの中に隠れているうちにバリバリバリという機銃掃射の音が聞こえた。機銃掃射でお母さんが死んで、おぶっている赤ちゃんが泣いていたという話も聞く」

同じシティガイドである渡辺さんは当時2歳。空襲の記憶はなく、当時を知る相田さんの証言は貴重なものとなっています。

【相田敏之介さん】
「宇品丸が積んでいたコメが1日何合か特別配給になった。ただ、一度水に浸かったコメは匂いが…」

海水に浸かったコメは匂いもきつかったといいますが、当時はそれも貴重な食料でした。

■終戦の約10年後に慰霊碑

宇品丸の犠牲者を悼む慰霊塔が建てられたのは、終戦からおよそ10年後のことでした。

【渡辺博さん】
「新潟市を守ってくれたのに誰も慰霊してくれないということで、木の柱で慰霊塔が作られた。それが最初です。忘れられていたわけではないが、戦後の混乱期ですからね。戦後10年経ってからのことです」

宇品丸の慰霊塔は木製からコンクリート製に建て替えられ、近隣の住民が維持管理を続けています。
住民は「慰霊塔に手を合わせる人が年々少なくなってきている」と話しました。

■課題は記憶の風化

戦争を知る世代が減っていく中、誰が語り継いでいくのか。
記憶の風化が大きな課題となっています。

【渡辺博さん】
「今のところは元気ですが、いつまでも私がやっていることはできない。私の仲間もどんどんやめていく。ガイドは引き継いでいかないといけないと皆さんに言っている」

「新潟市を守った」と言われる「宇品丸」。
悲惨な歴史を繰り返さないために、途絶えさせてはいけない記憶です。