【速報】所在不明の「明智光秀の寄進状」を"発見" 約450年前の古文書 ゆかりの寺・来迎寺から 「先々代の住職のタンスを整理していたら見つかった」滋賀・大津市
戦国武将「明智光秀」が発行した古文書の原本「明智光秀寄進状」が大津市の寺「聖衆来迎寺」から「発見」されたことが19日、分かりました。
この古文書は天正5(1577)年に、坂本城主だった明智光秀が来迎寺あてに発行したもので仏を供養するためのコメを寄進することを伝える内容です。
この古文書は、戦前に東京大学で調査され重要史料とされてきましたが、原本の所在は不明とされてきました。今年10月、この文書を見つけた来迎寺が琵琶湖文化館に相談、琵琶湖文化館が他の写本や明智光秀の文書と見比べるなどの調査を続け、このほど原本であることが確認されました。詳しい調査はこれからですが、署名の後に記載された花押の部分は光秀の直筆のものである可能性が高いということです。
来迎寺の住職が、先々代の住職の遺品を整理しようとし、袈裟をしまっていたタンスを開けたところ、中から発見されたということです。
もともと来迎寺は、明智光秀が坂本城から移築させたといわれる重要文化財の表門があり、天正8(1580)年に光秀が寄進した旨を書いた梵鐘も所蔵されるなど「明智光秀ゆかりの寺」として有名です。今回、来迎寺と明智光秀の関係を直接示す一次資料が見つかったことで、改めて坂本城主だった明智光秀が地元の寺院にあつい信仰を寄せていたことが分かりました。
来迎寺の山中忍恭住職は「私が住職に就任する以前から所在が分からなくなっていたので、今回の発見には驚き、かつ在任中に見つかって安堵している。明智光秀公と当寺との関係を証明する重要文書が再発見されたことを喜んでいる。今後は琵琶湖文化館へ寄託する予定」とコメントを発表しています。
また、明智光秀に詳しい大山崎町歴史民俗資料館の福島克彦館長は「長年にわたって明智光秀文書の研究をしてきたが、この古文書については原本の所在が不明であり、残念に感じていた。長く所在が不明となっていた光秀文書の原本が再発見されたことは、明智光秀文書の研究の上で意義深い。紙質や態様など、実物でないとわからない情報もこれでわかる」と喜びのコメントを発表。書かれた内容に関して「『明智』という肩書が気になる。光秀は天正 3 年 7 月に、惟任姓を賜り日向守に任官するので、以後は『惟任』、『惟日』などを肩書に記すのが通例。天正5年であれば、惟任、あるいは日向守とするところを、あえて『明智』としている点は異例だ。この文書の肩書として記された『明智』は後世に追記したものか、あるいは光秀自身の中で『惟任』姓と『明智』姓に使い分けがあったのかについて、さらなる研究が必要で興味深い」としています。
この文書は来年1月7日から2月4日まで、安土城考古博物館での展示を予定しています。
【古文書に書かれた文字】
当寺仏供料
七拾八石九斗弐合
令寄進者也 仍
如件
天正五 明智
九月廿七日 光秀(花押)
来迎寺
【意味】
当寺の仏供料(仏を供養するための料米)として、78石9斗2合の米を寄進させるものである。以上、前記記載の通りである。
天正5年(1577年)9月27日 明智光秀から、来迎寺(聖衆来迎寺の略称)へ