【独自特集】妻は臨月、息子は2歳「早く帰ってやりたい」 戦後のイラク復興支援の最中、凶弾に倒れた外交官 命を懸けて取り組んだ平和実現への願いとその軌跡
2003年11月29日、戦後のイラクの復興支援のためイラクに赴いていた外交官・井ノ上書記官らは、重要な会議に出席するためバグダッドからティクリートに向かう途中、何者かに襲撃され、命を落としました。それから20年—。当時の井ノ上書記官を知る関係者らへのインタビューを通して、彼が命をかけて取り組んだ平和実現への願いとその軌跡、そして、今も後輩たちに受け継がれている彼の遺志を取材ました。
「芯が強く度胸もあった」戦後復興の支援の為に、50度超えるイラク中を駆け回る日々
2023年11月25日、宮崎県都城市立上長飯(かみながえ)小学校では、日本の国益のため、そして世界の平和のために力を尽くし、遠いイラクの地で、志半ばで30歳の若さで亡くなった外交官・井ノ上正盛さんの追悼式が行われました。
田爪俊八元校長
「20年たちましたけれど、井ノ上さんの木の下で、遺志を継続していこうと」
井ノ上さんが通った小学校の校庭には、彼の功績を忘れないために植えられた、平和の木「井ノ上桜」が、力強く青空に枝を広げています。春、暖かくなるとつぼみが生長し、満開の花を咲かせ、新入生らを包み込むように迎えます。
今から20年前、2003年3月、イラクの首都バクダッドは緊迫していました。同時多発テロを受け、アメリカは大量破壊兵器の「保有」を理由に、イラクとの戦争に踏み切ろうとしていたのです。
井ノ上書記官はその1年前から、在ヨルダン大使館イラク班に配属されていました。
日本側がアメリカとの戦争を回避させようと、イラク側に安保理決議を守るよう説得に乗り出した際、井ノ上書記官は、1人で日本とイラク双方の通訳に尽力しました。
イラク戦争開始直前、日本政府からいよいよ「在イラク日本大使館から避難せよ」との命令が言い渡されると、イラク人職員一人ひとりとアラビア語で挨拶を交わし別れを惜しみました。
井ノ上正盛書記官
「アンマン行きのクルマには誰が乗ったの?…そうか、分かった。また元気でね」
イラク人職員
「今から後ろをついて行こうか」
井ノ上書記官
「大丈夫、彼と乗るから」
3月20日 イラク戦争 開戦—。
それからわずか3週間。アメリカは圧倒的な武力を用いて、イラクのフセイン政権を崩壊させました。
5月8日、在イラク日本大使館が再開されると、井ノ上書記官は、今度は戦後復興の支援のため、再びイラクに赴きました。ほぼ同じ時期に奥克彦参事官(当時)もイラクに。2人は夏の気温が50度を超えるイラク中を駆け巡り、医療、教育などをはじめとする経済協力案件の調査などを行いました。
当時イラクで人道支援にあたっていた、国際NGO「ピースウィンズ・ジャパン」の大西代表は、井ノ上書記官と出会った時のことをはっきり覚えています。
NGO「ピースウィンズ・ジャパン」大西健丞代表
「イラクでは4月から5月にかけて砂嵐が発生します。井ノ上氏さんは風呂も3~4日入っていないのでほこりだらけだったので 外交官だけど苦労されているなと思いました。井ノ上さんが最初に出てきたスープをおいしそうに飲んでいたのも印象的で、どうしたのか聞くと、3日ぶりにまともな食事を食べました、と答えたんです。真面目だけども仕事が速いし、柔和で、イラク人とはコミュニケーションを良く取れている方だと思いました。イラクの中で働いている日本人は当時少なかったので同志感覚で、外務省とかNGOではなくて、やれることはお互いにやるという感じでした」
当時、総理補佐官(イラク担当)として、何度もイラクに足を運んでいた故・岡本行夫氏が、著書『砂漠の戦争』の中で、イラクで井ノ上氏と会った時の印象を、こう書いています。
(砂漠の戦争より)
『小柄できゃしゃな感じの井ノ上は、いつも微笑みを絶やさずにいたが、芯が強く度胸がすわっていた。ある時、米軍の兵士たちが本国の家族へなかなか電話できないとガヤガヤやっていた。通りかかった井ノ上は「良かったらこれ使ったら」と、自分の携帯をその見知らぬ兵士たちに差し出した。歓声があがり電話は兵士たちの手から手へと回る。井ノ上はそのままメシを食いに行ってしまった。電話が返ってきたのは1時間後。山のような感謝とともに。「三か月ぶりに家族と話ができました」「恋人の声が聞けました」井ノ上は「良かったですね」と微笑んだ』
任期は切れ、これが最後のミッションだった…臨月の妻と悲しみの再会
しかし、戦後復興は思うようには進みませんでした。フセイン政権が崩壊したイラクでは、政権の残党に加え、イスラム原理主義を掲げるテロリストも台頭し、治安が徐々に悪化したのです。2003年8月にはバグダッドの国連本部ビルが爆破され、24人が犠牲になりました。こうした中、井ノ上書記官らは大きな決断をすることになります。
NGO「ピースウィンズ・ジャパン」大西健丞代表
「彼(井ノ上氏)はもう任期切れだったんですね。本来であれば日本に帰れた時だったのですが、イラク北部でクルド人のリーダーシップを取っていたジャラール・タラバニ氏と会うというミッションがありまして、タラバニさんは後にイラクの大統領になったのですけれども、会談できるように調整するというのが最後のミッションでした。北部地域の危ないところを通過することになるんですけれども…反外国人・反アメリカという地域だったので非常に要注意の場所でした」
2003年11月29日、井ノ上書記官らは、バグダッドを北上し、タラバニ氏のいるティクリートに向かいました。しかしティクリートまで残り30キロの地点で、後ろから来た車に横付けされ、自動小銃で30発以上の銃弾が撃たれました。
銃弾は左側の防弾ガラスを貫通していました。助手席に乗っていた井ノ上書記官とイラク人運転手は即死。後部座席の奥参事官には息があり、病院に搬送されましたが、もはや手の施しようはありませんでした。犯人は今も分かっていません。
訃報を受け、遺族は身元の確認と引き取りのため遺体が安置されているクウェートのアメリカ軍基地に赴きました。井ノ上書記官の長男は当時2歳。妻は妊娠中で、いつ生まれてもおかしくない臨月を迎えていました。夫との悲しみの対面から数週間後、妻は女の子を出産しました。
NGO「ピースウィンズ・ジャパン」大西健丞代表
「井ノ上さんとも話したんですけれど、妻が妊娠中で、できるだけ早く帰ってやりたい、とは言っていました」
「世界平和に貢献したい」幼少のころからの高い志 受け継がれる平和への願い
井ノ上書記官は、なぜ、臨月の妻のために帰りたい思いを抱えつつも、イラクに残ったのでしょうか。
これは井ノ上書記官が小学5年生の時に書いた作文です。
(小学5年生の井ノ上正盛さんの作文)
『報道番組「アフリカ・飢餓地帯」をみて
畑の作物も不作で、今まで住んでいた土地をはなれていくようすをみて、僕は言葉で言い表せないほどつらい気持ちでした。飢えに苦しむ人々に、少しでもできることをしていかなくてはいけないと、僕は思いました』
井ノ上書記官は小学生の頃から、高い志を抱いていました。その後進学した熊本大学では国際法を専攻し、論文のテーマは途上国支援でした。
(熊本大学時代の論文より)
『ODAは途上国の経済発展ないし自立を促す主要な手段の1つではあるが、ODAのみによってそれを達成することは出来ない。途上国自身の強い意志と実行努力なくしては、経済の発展・自立はあり得ないのである』
『環境や人権の面で、現地の市民レベルの情報を持っているNGOとの連携を強化する
ことは、より現地のニーズにあった細やかな援助を喚起するといった点で欠くことのできないものである。今後、日本の援助をより質の高いものにしていくためには、政府と民間との緊密な情報提携による援助体制を確立していかなければならない』
大学で指導した教師は、「大学で学んだことを外交官として実践した」と話します。
熊本大学時代の恩師 中央大学・北村泰三名誉教授
「日本の経済にとって、エネルギーの輸入先としてアラブの国々は非常に重要であるわけですから、復興支援をやることは日本の国益がかかっているという自覚・自負をもって、奥大使とともに、イラクに行ったのだと思います」
同期の外交官はー
在サウジアラビア日本大使館 河原一貴公使
「世界の平和のために貢献したいという強い信念を持っていたと思います。1996年に一緒に、中東地域各国から若手外交官を招聘(しょうへい)するプログラムに、取り組みました。エジプト、シリア、パレスチナ自治区といったアラブ地域に加えて、イスラエルからも招聘(しょうへい)し、両者の対話を促すことが狙いでした」
井ノ上書記官をイラクに踏みとどまらせたのは、「世界平和に貢献したい」という幼少のころからの理念とともに、現実的に困っている人々を目の前にして「彼らの生活の復興のための道筋をつけたい」という、強い信念からだったのではないでしょうか。
井ノ上書記官の命日11月29日近くになると、毎年、上長飯小学校では校長先生が井ノ上書記官の功績を振り返りながら、平和の尊さに思いをはせる平和学習が行われます。井ノ上書記官について、後輩たちに聞くとー
小学校5年生 西ケ野美都さん
「思いやりがあって行動力がある人だと感じました」
小学校5年生 池口泰樹さん
「外国に行って困っている人を助ける、素晴らしいなと思いました」
小学校時代の同級生 塩満史子さん
「昔からじっとしているタイプではないと思うんです。困っている人がいると“自分でなんとかしなければ”という熱い正義感がある人でした」
井ノ上書記官が命をかけ貫いた平和への願いは、いまも受け継がれています。
「これからの未来が今より少しでも平和に…」20年を経た遺族の思い
(井ノ上書記官の姉の手記)
Q.どのような子供でしたか?
「ひと言でいうと、誰にでも優しい子。明るく元気な普通の子どもでしたが、空手や、アマチュア無線など興味を持ったことには一生懸命に取り組む子供だったと思います」
Q.事件から20年を迎えて
「過ぎてみるとあっという間でしたが、当時はニュースや新聞で事件が取り上げられる度に色んな感情が込み上げ、涙することも多かったです。悲しく辛い思いをしましたが、弟を想う気持ちが、前を向いて明るく過ごせる今に繋がりました。弟が亡くなってから、彼が多くの方々に慕われていたと知れたことには、私たち家族にとって大きな慰めになったと感じています。20年という長い年月が経った今も、忘れずに心を寄せて下さる方々に感謝の気持ちでいっぱいです」
Q.正盛さんについて、今考えること
「今も世界中で争いが絶えず、私達以上につらく悲しい思いをもたれている方が世界中にたくさんいらっしゃることは、本当に残念で悲しいことです。今の子供達に、自分の命を大切にして欲しいです。自分以外の人のことも大切に相手を尊重できる人になって欲しいです。そして、お互いに足りないものや弱りところを補い、助け合える人に育って欲しいと思います。これからの未来が、今より少しでも平和な世界になることを祈っています」
(ウェークアップ 2023年12月2日放送)