【特集】幕末・維新を生きた志士らの遺品が現存する『霊山歴史館』で、坂本龍馬を斬った男の真相に迫る!初代館長・松下幸之助氏の想いとは?動乱の世に思いを馳せる京都歴史散策<前編>
作家・若一光司(わかいちこうじ)氏と『読売テレビ』プロデューサー・五十嵐竜馬(いがらしりょうま)の二人が、幕末の志士たちにまつわる貴重な資料が数多く展示されている京都『霊山(りょうぜん)歴史館』へ。初代館長・松下幸之助氏の想いとは?龍馬を斬ったのに有名ではない男の正体は?幕末から明治維新への歴史を徹底調査します。
■幕末と関わりの深い京都・三条大橋 あの刀傷のナゾ
(作家・若一光司氏)
「今回は、京都にやって来ました。我々は今、鴨川にかかる『三条大橋』にいます。ところで、五十嵐さんは竜馬(りょうま)なので、坂本龍馬と名前が被っていますね?」
(『読売テレビ』プロデューサー・五十嵐竜馬)
「私の両親は坂本龍馬が大好きなので、名前を頂きました(笑)」
(若一氏)
「この京都には、幕末そして明治維新を専門に扱っている『日本で唯一の博物館』があることを、ご存じですよね?“歴史の証人”と言ってもいいような、貴重な展示物があります」
(五十嵐P)
「『霊山歴史館』ですね」
(若一氏)
「ここ三条大橋も、幕末の歴史などと深く関わっている所です。『新選組』近藤勇局長が首をはねられて晒されたのも、この河原です。そして、この擬宝珠(ぎぼし)にも傷が残っています」
(若一氏)
「この傷は一体何だ?ということで、我々は2012年に再現検証をしました。その結果、三条大橋の傍には幕末の歴史を大きく揺るがした『池田屋事件(元治元年/1864年)』の現場となった旅籠・池田屋がありましたが、その『池田屋事件』の斬り合いがここまで引っ張られてきて、その際にこの傷がついたのではないかということが、かなりの確率で確認できました」
■『霊山歴史館』初代館長・松下幸之助氏の想い
当時の動乱に思いを馳せながら、二人は『霊山歴史館』へ。
(若一氏)
「『霊山歴史館』の隣には、『京都護国神社』があります。この上が墓地になっていて、坂本龍馬・中岡慎太郎・桂小五郎といった方々が眠っています。『霊山歴史館』を見学した後、そのお墓も確認したいと思います。坂本龍馬が今どういう風景を見ながら眠っているのか、わかります」
(若一氏)
「そして、こちらの建物が『霊山歴史館』です。開館は1970年、『松下電器産業』創業者・松下幸之助さんが初代館長です」
松下幸之助氏は戦後、荒廃した霊山墓地を復興。そして、「日本の未来のために奔走した志士たちの精神を誰もが学べるように」と、墓地の前に歴史館を開館しました。
■いよいよ館内へ 龍馬を斬った男が有名ではない理由とは?
(若一氏)
「『霊山歴史館』に入ると、いきなり坂本龍馬を斬った刀があります。上のほうの脇差です。かなり錆びてはいますが、刃こぼれの跡が残っています」
(五十嵐P)
「これが、坂本龍馬を襲ったんですね」
(若一氏)
「これは誰のものかと言いますと、『京都見廻組(きょうとみまわりぐみ)』のメンバーだった桂早之助です。『京都見廻組』の7人ぐらいの武士が、『近江屋』で坂本龍馬と中岡慎太郎を襲いました。その際に振るったこの刀によって龍馬は頭を斬られ、その結果、ほぼ即死だったといわれています」
龍馬を暗殺した刀は、“ある理由”から「刃渡りの短い脇差であった」といわれていて、小太刀の達人ともいわれている桂早之助が実行犯だったという説が有力だそうです。
『霊山歴史館』学芸課長・木村武仁さんに、お話しを伺います。
(『霊山歴史館』学芸課長・木村武仁さん)
「こちらが、桂早之助の実家から寄贈された資料になります。彼は、龍馬を斬った1か月半後に『鳥羽伏見の戦い(慶応4年/1868年)』という京都で起こった戦争に参加し、戦死してしまいました。自分が龍馬を斬ったと告白することなく亡くなったので、今でもあまり知られていない人物です」
(若一氏)
「ただ、親族にはそういう話をしていた、ということですね?」
(木村さん)
「そうです。『この刀で龍馬を斬ったんだ』と実家にこの刀を残して、戦争に参加して亡くなったということです」
(若一氏)
「いろんな調査の結果、やはり龍馬を斬ったのは“桂早之助の小さな太刀だ”ということになるわけですね」
次回<中編>では、『近江屋事件』の再現模型を使い「脇差でなければならなかった理由」に迫ります。体毛まで再現された“実物大”龍馬像も!
(「かんさい情報ネットten.」2024年6月12日放送)