『怪物くん』のルーツ、手塚治虫さんとの秘話語る 漫画家・藤子不二雄Aさん
■『怪物くん』のルーツはアメリカ映画!?
1965年に雑誌『少年画報』で連載を開始され、藤子不二雄Aさんの代表作の一つとなっている漫画『怪物くん』。そのルーツは、トキワ荘時代から好きだったという映画でした。
藤子不二雄Aさんは「当時、ぼく映画大好きでね。特にアメリカ映画で、フランケンシュタイン、狼男、ドラキュラの怪奇映画、怪物映画があったんでね。これを手下にして怪物ランドの王子がでたらおもしろいんじゃないかと」と、青春時代に見ていたという怪物映画シリーズからインスピレーションを受けていたといいます。
さらに、主人公の『怪物くん』の顔は、ある意外な人からヒントを得ていました。当時を振り返った藤子不二雄Aさんは「ちょうど姪が小さくて女の子だけど活発で、女の子なのに半ズボン履いてかけずり回っていたんですよ。おもしろいなと思って半ズボン履かせたんですよね」と、語っていました。
■手塚治虫さんとの関係 机を譲り受ける
1954年に共同生活アパート『トキワ荘』に入った藤子不二雄Aさん。入居当時について「机は手塚(治虫)先生がトキワ荘で使われていた机なんです。それを僕らがもらってね」と漫画家・手塚治虫さんから机を譲り受けたといいます。
さらに、「ここで描くと手塚先生のオーラがのりうつるような感じがして、いい漫画が描けるような気がした。手塚先生は大天才。日本の漫画は手塚先生でまた新しい世紀を作った」と、漫画界で一時代を築いた手塚治虫さんをたたえていました。
■漫画家を志した理由
絵が好きな少年だったという藤子不二雄Aさんですが、生家がお寺だったため、将来が義務づけられていたといいます。お寺を継ごうと思わなかったのかと聞かれた藤子不二雄Aさんは、「もちろん考えていた。寺を継ぐのが、お坊さんになるのが当然だと思っていました」と、お寺を継ぐことを意識していたことを明かしました。
しかし、意外な転機があったといいます。「小学校5年生の時に、急に父が亡くなったんですよ。大きな寺ですから新しい住職が家族とくるわけですよ。そうすると僕ら雇われ社長の家族みたいなもので寺を出なければならなくなったんです。当然、引っ越しして小学校も変わりますよね。そこに藤子・F・不二雄氏がいたんです。彼も僕に会っていなかったら漫画家になっていなかった。だから(出会わなければ)ドラえもんが生まれなかった。僕のおかげ」と、藤子・F・不二雄さんと出会い、そして漫画家の道を目指すきっかけを語っていました。
そして、藤子不二雄Aさんは、高校在学中の17歳のとき、漫画家デビューという夢を成し遂げました。「やっぱり夢というのは漠然と思っているのと、自分が実際に行動にうつすのと、全然違う。ただ憧れているだけじゃダメなので、そのために努力するというか頑張らなきゃダメなんですよね」と、振り返っていました。
■若者たちに伝えたいこと「つきあいをどんどん広げていってほしい」
20歳で上京しトキワ荘で赤塚不二夫さんや石ノ森章太郎さんなどと切磋琢磨し、数々の名作を生みだした藤子不二雄Aさん。
『今を生きる若者たちに伝えたい思い』について聞かれると「今の若い人というのは友達とふれあったり、真似したりということが少なくなった気がするんですよ。やっぱり人間はね、人とふれあわないと成長しないと思うんですよね。それを出来るだけ友達作って、もちろん生身の人間とつきあうと嫌なこともあるんですけども、それも一つの体験でね、どんどんつきあいを広げてねいってほしい」と、自分の経験を重ねながら『つきあいをどんどん広げてほしい』と、若者にエールを送っていました。