渋沢栄一を直接知る最後の子孫…ひ孫の雅英さん(99)が語る 栄一氏と新紙幣
7月3日、20年ぶりとなる新紙幣が発行された。新1万円札の“顔”となった実業家の渋沢栄一は、「日本資本主義の父」と呼ばれ、近代日本の貨幣制度の確立にも深く関わった。晩年の栄一氏と面識のある最後の子孫、ひ孫の雅英さん(99)が、栄一氏と新紙幣について語った。(経済部・渡邊翔)
■栄一氏が晩年過ごした地に紙幣が“凱旋”…ひ孫の雅英さん「家族にとっても光栄」
新紙幣発行翌日の7月4日。渋沢栄一が晩年を過ごした東京・北区飛鳥山にある渋沢史料館に、栄一氏が“凱旋”した。3日に発行された新紙幣で、新1万円札の“顔”となった栄一氏。紙幣を発行する日本銀行は、若い記番号の新紙幣を、お札の肖像や裏面の図柄に関係する自治体などに贈呈。渋沢史料館(渋沢栄一記念財団)には、「AA000005AA」の新1万円札が贈られ、この日報道陣に公開されたのだ(4日午後には一般にも公開)。
公開の場に姿を見せたのは、渋沢栄一のひ孫である雅英さん(99)。杖をつきながらもしっかりとした足取りで登場し、「みなさまから評価していただけるということは、栄一にとって大変ありがたいことだし、私ども家族にとっても光栄なこと」と喜びを語った。
■直接知る最後の子孫が語る…渋沢栄一の「視野の広さ」
1925年生まれの雅英さんは、渋沢栄一(1931年死去)と直接面識のある“最後の子孫”だ。渋沢史料館には、1歳ごろの雅英さんが、栄一氏の膝に抱かれる家族写真が展示されている。「全然覚えていない」と笑う雅英さんだが、「雅英」の名前も、栄一氏が名付けたという。
栄一氏が亡くなったのは、雅英さんが6歳の時。葬儀の際に見た光景が、鮮明に記憶に残っているという。
渋沢雅英さん(99)
「(遺体を乗せた)車が行きますと、(道の)両側にたくさんの人が送って下さる。特に(栄一は)学校と色々関係がありましたので、日本女子大学(※創設に関与、その後校長も務めた)や一橋大学(※創設に関与)など、いろんな学校の方がたくさん並んでて下さって。一般市民の方もみんな並んで送って下さった。私はたった6歳でしたけど、『ああ、こんなに偉い人だったんだ』と。それまで知らなかった新しい印象を受けて、感銘を受けた」
幼いながらも栄一氏を「日本という国の成り立ちと深い関係のある人」と感じとったという雅英さん。その後、渋沢栄一に関する著書を数多く執筆した。日本で最初の銀行を設立し、生涯に500を超える企業に関わったとされる栄一氏。教育機関や社会公共事業、研究機関等の設立や支援にも関わった。この「視野の広さ」こそが、栄一氏の強みであったと雅英さんは指摘する。
渋沢雅英さん(99)
「栄一の『意識の広さ』というか、日本全体を考えて、あるいは世界や人類全体を考えて、何かをやろうといつでも思っているような姿、そしてそれに集中している姿を、(栄一の足跡をたどることを通じて)ずっと見てきた。偉いもんだなあと思って、現在までいるわけです」
その栄一氏が、国民に大きく反対されることなく、新紙幣の“顔”として受け入れられたことにも、雅英さんは安堵したという。
■栄一氏の孫も通貨の価値を守るために奔走…いま渋沢栄一が「お札の顔」になる意味
実はこの日、雅英さんが言及した渋沢家の人間がもう1人いる。雅英さんの父(栄一氏の孫)である、渋沢敬三。戦中から戦後にかけて日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任した人物だ。特に終戦直後の激しいインフレ進行を阻止するために奔走し、通貨の流通量を強制的に減らそうと、国民の各種預金を封鎖する「預金封鎖」を行い、それまでの紙幣を強制的に新しい紙幣に切り替える「新円への切り替え」を行った。
渋沢雅英さん(99)
「『新円』を作った時の日本の状況は本当に悲しい状況で、うちに帰ってきた父親が『きょうはGHQに行って交渉をしてきた』と言っていたのを今も覚えている」
いわば日本の通貨、紙幣の価値を守るために奔走した敬三氏は、1963年、67歳で死去。雅英さんは「戦争中のお金に関する苦労が、彼の命を縮めたのではないか」と振り返る。
渋沢一族が関わり、守ろうとしてきた日本の貨幣制度。こうした歴史を経て、渋沢栄一が「新紙幣の顔」になった意味を、雅英さんはこう語る。
渋沢雅英さん(99)
「大変な時で、私も(終戦直後は)『日本はどうなるのかな』というふうに思っていたが、不思議なことに、それから日本はだんだん回復してきて、あれから70年以上たち、世界の『一流国家』というほど偉くないかもしれないが、ひとつのステータスを持った国になれた。それ(経済の回復と成長)をずっと、紙幣というものは引っ張ってくれた。…紙幣が引っ張ったわけじゃないけど、ひとつの象徴だった。それに新しく栄一が(肖像に)なるということは、ありがたいことだし、うれしいこと。しかも国民のみなさんが、栄一はそういう(お札の顔になるにふさわしい)功績があった人だと思って下さったのは、大変印象の深いことだった」