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夢を叶えようと仙台の大学に進学し被災した美波町出身の女性 彼女は「あの日を忘れない」【徳島】

2024年3月11日 21:29
夢を叶えようと仙台の大学に進学し被災した美波町出身の女性 彼女は「あの日を忘れない」【徳島】
2024年3月11日がやってきました。

東北地方一帯を中心に甚大な被害をもたらした東日本大震災から、この日で13年です。

当時、宮城県で大学生活を送っていた際に被災し、現在、徳島美波町由岐地区でその体験を伝え続ける1人の女性を取材しました。


美波町由岐地区で生まれ育った久米灯さん


徳島県美波町由岐地区の浜辺を家族仲良く浜辺を散歩するのが、久米灯さん(32歳)です。

この地で生まれ育った灯さんは、小学生のころからの夢・教師を目指して、2010年に宮城県仙台市の大学に進学しました。

そして迎えた運命の日。


2011年3月11日


(久米灯さん)
「3月8日もちょっと大きい地震があり、揺れたなあと思ったら、3日後に東日本大震災が起きました」

春休み中でしたが、大学の食堂で友人と食事をして、学校を出ようとした時、大きな揺れが襲いました。

(久米灯さん)
「普通に立っていられない。このまま地球が壊れるのではというぐらいの激しい揺れ。実際は2分ぐらいの揺れだったというが、私が感じたのは15分とか長く感じて、あ、私、このまま死んでしまうだろうなって」

その時、徳島にいた灯さんの家族は。

(灯さんの父・橋本一晴さん)
「まずは電話をしたけどつながらなかった。メールで『大丈夫か』と入れた。なかなか返事がなかったが、『大学内に居る』と返事があったので、とりあえず安心した」

一人暮らしをしていた灯さんですが、「一人は危ない」と友人に言われ、友だち4人で一緒に行動することにし、避難所になっていた小学校の体育館に向かいましたが。

(久米灯さん)
「すごい人でごった返してて、座れる状態でもないし。そこで一夜を過ごそうと思っていたけれど、寝れない状態で。何とか見つけたスペースで大学生4人が毛布一枚敷いて、体育すわりになって...。思い出すとすごくしんどいというか...」

横になることすらできない避難所を出て、灯さんたちは友人の祖母が昔、住んでいたという空き家へと向かいました。

(久米灯さん)
「目標とかはなかったし、明日がどうなるかわからない不安はあったけど、とにかく生きていかなあかんと。2日後に電気がついて、『やった~、やっと電気ついた、良かった』って、『カップラーメン食べれる』って喜んだけど、そのあとテレビを見て、津波が来ているのを知って、すごくショックを受けて、そこからテレビは見なかった」

そんな時、友人の知り合いが、家のお風呂に誘ってくれました、一週間ぶりのお風呂でした。

(久米灯さん)
「(Q.そのときのお風呂は?)最高に気持ち良かったです。今でもハッキリ覚えています」

一週間ほど避難生活を続けた後、何とか交通手段を確保して、徳島に帰ることになったものの、心には葛藤を抱えていました。

(久米灯さん)
「私だけ被災していない徳島に帰るのは、すごい申し訳ない気持ちがあって。ほとんどの子が東北に実家があって、どの子も被災している。でも私が帰ることで、私の食糧がほかの子に渡る。それなら早く帰る方がいいなという考えになって。申し訳なさもあったけど、帰ることにした」
「おうち帰って来て(家族と)抱き合いあいました」

(灯さんの父・橋本一晴さん)
「まずやっぱりホッとした。不謹慎かもしれないが、自分の娘だけ帰って来て。被災地の皆さんは大変な思いをしているのに、自分の娘だけ帰らせた。罪悪感とまで言わないが、後ろめたい部分もあった」

5月、灯さんは大学再開とともに仙台へ戻りました。

不安はありましたが、「先生になる」という夢を支えに、学生生活を送りました。


大学4年生のとき 地元の由岐地区でアカペラサークルのメンバーとコンサートを


大学4年生の時には、所属するアカペラサークルのメンバーとともに、地元・由岐でコンサートを開催、そこでは被災体験も語りました。

(サークルメンバー)
「海に行ってみると、何もない。見慣れたお店や友達の家、もう何もなくて」

(サークルメンバー)
「地元からやっと連絡があり、家が流されてしまったと」

(久米灯さん)
「由岐地区で育ってきて、海が大好きで。(南海トラフ巨大地震は)きてほしくないけど、くるので、皆さん一人一人がしっかり危機感を持って。もし、あったときは一人一人が協力して助け合う気持ちを持って乗り越えていけたらいい」


由岐地区に帰ってきた灯さん


そして、灯さんは、ふるさとに帰ってきました。

美波町由岐地区は、2024年2月末時点で1084世帯・2016人が住む小さな港町です。

普段は穏やかなこの町も、南海トラフ巨大地震の被害想定では、最悪の場合、地区のほとんどが5m以上の浸水にさらされる恐れがあります。

かつて東日本を経験した灯さんにとって、そんなリスクを抱えたこの町で暮らすこととは。

(久米灯さん)
「仙台の居心地が良くて、ここ(仙台)で先生になるのもいいなあと思ったけど、東日本の経験をして、南海トラフが来ると言われる中で、私にできることはこの経験を伝えることではとすごく感じていて、徳島で『3・11』を経験した人はなかなかいないし、この経験を伝えていける」


そして灯さんはいま...


灯さんは、教師になるという幼いころからの夢をかなえ、現在、由岐地区のお隣・阿南市福井小学校で5年生の担任をしています。

学校では防災に関する授業も担当し、自身の体験を子どもたちに話しています。

(久米灯さん)
「これだけ並んで、買えたのはなんだったでしょう?」

(児童)
「アポロ」「チロルチョコ」「チロルチョコ5個」

(久米灯さん)
「そう。2時間ローソンに並んで、チロルチョコ5個しか買えなかった」

(久米灯さん)
「先生なら子どもたちに伝えていける、防災意識を高めていけるという思いはずっと持っていて。正直に言うと、思い出したくはないし、話すのもしんどいけど、やっぱり伝えていかないとというのがあるから、子どもたちにも伝えたいと思う」

震災の体験を、子どもたちに伝え続ける灯さん。

それがあの地震を体験した、自らに課せられた「使命」だと思うから。

(久米灯さん)
「被災して、避難生活で一番感じたのは何だろうな。協力することの大切さ、相手を思いやることの大切さって、防災学習だけじゃないと思うので、教師として子どもたちにそういう気持ちの大切さを伝えていけたらなと感じています」

東日本大震災から13年。

あの日の記憶は今も、手を伸ばせば届きそうなところにあります。

その記憶を伝え続ける灯さんには、ふるさとと、子どもたちへの暖かな愛があふれていました。




灯さんは、今まであまりメディアの取材は受けてこなかったそうなんですが、長い時間がたち、東日本大震災が風化していっているように感じられること、そして2024年元日の能登半島地震の発生を受けて、改めて多くの人に災害について考えてほしいと、今回、重い口を開いてくれました。

みなさんも、自分の、そして家族の命を守るために、改めて防災について考えてみてはいかがでしょうか。
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